井伊直虎(柴咲コウ)は、遠江国の井伊谷城主・井伊直盛(杉本哲太)の娘として1536年頃に産まれました。正確な誕生日や幼名は分かっていません。
この当時の井伊家は国人領主として、井伊谷を治めつつ、駿河・遠江・三河を支配していた大名・今川義元(春風亭昇太)に臣従していました。
直盛には跡継ぎとなる男の子がいなかったため、直虎は幼い頃から従兄の井伊直親(三浦春馬)を婿養子に迎えることが決まっていました。井伊谷という小さな領地ながら、城主のお嫁さんになるというささやかな幸せな将来が約束されていたのです。
しかし、次々と彼女に悲劇が襲います。まず、許嫁である井伊直親の父が謀反の疑いをかけられ、自害させられてしまいます。直親にも被害が及ぶ恐れがあったため、直親は家臣とともに、信濃に脱出します。
井伊家では直親の命を守るため、その生死を許嫁の直虎にも秘密にします。許嫁が死んだと思い込んだ直虎は失意のうちに出家してしまいます。さらに、直虎の父・直盛が桶狭間の戦いで戦死します。
許嫁の直親は別の女性と結婚
井伊家の家督を継ぐため、それまで信濃に隠れていた許嫁の直親が井伊谷に帰ってくることになります。しかし、すでに仏門に入っていた直虎は結婚できず、直親は別の女性と結婚してしまいます。
その直親も今川家に謀反の疑いをかけられ、殺されてしまいます。その後も井伊家の男たちは、次々と死亡し、とうとう家督を継ぐ者がいなくなってしまいます。
女性の直虎が還俗し、井伊谷の領主になるしか井伊家存続ができなくなってしまうのです。直虎自身、女性の戦国武将として生きていくとは思ってもみなかったのではないでしょうか。ただ、井伊家の家系図では、直虎は宗主として数えられていません。
井伊家22代が直虎の父・直盛、23代が許嫁・直親、その後はいったん滅亡したことになっていたり、24代目が直虎の養子・直政(菅田将暉)になっています。直虎は、直政が成人するまでの”中継ぎ”とも言えるのです。
井伊直虎は戦いよりも内政が得意
井伊直虎は井伊谷の領主になると、自分の足で領地を見て回り、相次ぐ戦で疲弊した領地を復興させ、新しい商人たちが領内で商いを行うことを奨励するなど、安定した領地経営に尽力します。
しかし、主家である今川家からは、農民たちの借金を無かったことにする「徳政令」を井伊谷に出すように命じられます。徳政令が実施されると、農民たちは一時的に助かりますが、商人たちは立ち行かなくなってしまいます。
そこで直虎は、今川家に対し粘り強く交渉し、発令を遅らせました。その間に、農民たちの動向に気を配りつつ、商人たちへ徳政令の免除を行う措置を進めました。
今川家の命令から2年後に井伊谷での徳政令は実施されるのですが、領内が大きく混乱することはありませんでした。その後、今川家が滅亡すると、甲斐の武田に臣従するか、三河の徳川に臣従するかの決断に迫られます。
まわりの国人領主の多くが武田に臣従する中、直虎は徳川を選択します。後にこの決断が井伊家を救うことになるのですが、武田軍が京に上るために進軍が開始されると、井伊家の軍勢はことごとく敗れていきます。
井伊直虎も徳川家康(阿部サダヲ)の居城・浜松城に逃れました。戦の相手が戦国最強と呼び声の高い武田信玄の軍勢ということもあるのですが、残念ながら、井伊直虎が戦を指揮したり、戦に勝ったりしたといった記録は残っていません。
井伊直虎最大の功績は井伊直政の仕官
井伊直虎の最大の功績は、養子にとった井伊直政を徳川家康に仕官させたことではないでしょうか。直虎は、許嫁であった井伊直親の息子・井伊直政(幼名は虎松)を養子に取ると、家臣の子供たちと一緒に寺で学ばせたといいます。
1575年に井伊直政は徳川家康に見いだされ、小姓に取り立てられます。その後、直政は徳川家康のもとで武功をたて続け、徳川家の天下取りを支えた功臣となり、彦根藩35万石の藩祖になります。
直政の幼少期に施した教育や家臣の子供たちと一緒に学ばせたことで培った主従の絆が直政を出世させたのです。幕府に信頼され、幕末まで何人もの大老を出した井伊家の繁栄の礎を築いたのは、実は井伊直虎だったと言ってもよいのかもしれません。
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