井伊直虎は菩提寺に出家していたの?

「菩提寺」とは、先祖代々のお墓があり、法要を営むお寺のことを言います。井伊家は、遠江国の井伊谷(現在の静岡県浜松市)で起こりました。江戸時代には彦根藩を受領したのを初め、江戸の世田谷領も受領しました。

 

さらに井伊直政の子、直継が安中藩(群馬県安中市)を与えられ、その後、転封されたため、菩提寺は各地に存在しています。直系で、代表的な菩提寺としては、浜松・龍潭寺(りょうたんじ)、妙雲寺、彦根・龍潭寺、東京・豪徳寺があります。

 

2015年には浜松市の妙雲寺で井伊直虎(柴咲コウ)の位牌が発見され、2016年4月に公開されました。ただ、井伊直虎にとっての菩提寺は、浜松・龍潭寺と言えるでしょう。

 

浜松・龍潭寺には、井伊家の開祖・井伊共保(いいともやす)から井伊直政までの墓地が境内にあります。井伊直虎の墓地も浜松・龍潭寺にあり、元の許嫁・井伊直親(三浦春馬)の隣に祀られています。





井伊直虎の出家と軍師の存在

井伊直虎は、井伊直盛の長女として生まれました。幼いころの名前は分かっていません。井伊直盛(杉本哲太)には、子供が井伊直虎だけで跡取りになる男の子がいませんでした。

 

そのため、弟の井伊直満(宇梶剛士)の子・亀之丞(後の井伊直親)を井伊直虎の婿養子にすることを決めていました。幼いころ仲睦まじい遊び相手でもあった直虎と亀之丞は、将来を約束した許嫁でもあったのです。

 

しかし、そのまま二人は結ばれることはありませんでした。二人の婚約に不満を抱いていた家老・小野政直(吹越満)が、井伊家の主君である今川義元(春風亭昇太)に、亀之丞の父である井伊直満には謀反の疑いがあると密告します。

 

これを聞いた今川義元は、井伊直満を自殺に追いやり、亀之丞も処刑しようとします。そのため、亀之丞は家老・今村正実とともに井伊谷を逃れ、信濃国にある松源寺に身を隠します。

 

井伊谷では「亀之丞は病死した。」との噂が流れ、それを聞いた井伊直虎は失意のうちに、自ら髪をおろし、井伊家菩提寺の龍潭寺に出家します。このときの龍潭寺の住職「南渓瑞聞(なんけいずいもん)」は、井伊家の出身です。

 

直虎の出家に際し、南渓瑞聞は、「次郎法師」と名付け“僧”として扱いました。当時は“尼”として仏門に入ると還俗することができませんでした。南渓瑞聞(小林薫)の機転が無ければ、のちに井伊直虎は誕生していなかったのかもしれません。

井伊谷徳政令後の井伊直虎

井伊直虎が井伊谷に徳政令を発すると、それを命じた今川氏真は、井伊直虎を領主から罷免してしまいます。井伊谷は今川家の直轄地となり、井伊直虎は井伊谷の城も領地も失うことになります。

 

そして、再び龍潭寺に身を寄せます。母とともに境内にある松岳院で過ごしていたと言われています。1572年に武田信玄が三河に侵攻した際に龍潭寺は炎上したとされても言われています。また、井伊直虎は晩年は妙雲寺ですごしたとも言われています。

 

どちらにしても、養子の井伊直政が徳川家康に見いだされると、役目を終えたと思ったのでしょうか、井伊直虎は故郷の井伊谷の菩提寺で、穏やかに暮らしていたようです。そして、1582年に死去すると、元の許嫁、井伊直親の隣に墓が作られました。





 

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