群雄割拠の戦国時代を彩った数々の武将たち、中でも真田幸村は今も多くの人に愛されています。真田丸や真田十勇士などで誰もが耳にしたことのあるであろう歴史に名を馳せた武将です。
そんな真田幸村(堺雅人)は、徳川家を2度にわたり戦で勝利を収めた真田昌幸(草刈正雄)の次男として生まれました。
人生を上杉家、豊臣家の人質の身として転々とされ、一生を徳川家に徹底対抗する姿勢を貫いた武将です。では、真田幸村の武将としての本当のところの評価はどうだったのでしょうか。
実は史実より、真田幸村が今ここまで人々にもてはやされているものより盛られていると言われています。それは幸村の置かれている状況が大きく影響しました。
実は信繁の出番は多くなかった?
それは父親やその家臣の矢沢氏、真田家を継いだ実兄の信之(大泉洋)が大変優秀で輝いていた為、武将としての出番が少なかったからです。
そんな優秀な父や兄を持った幸村を当時の権力者たちは疎ましい存在として思っていたと同時に、人質として武力にすることで天下統一への夢を叶えようとしました。
1614年から翌年にかけた大阪の陣、特に大阪夏の陣では道明寺の戦いに豊臣家の一員として参加し、徳川家康(内野聖陽)を本陣まで攻めいります。
あと一歩で、家康を討つというところまで追い詰めました。そのため家康は、幸村を大変恐れ一目を置く武将になります。敵に武将としての評価が高く、実力を大いに認められていたのです。
そのこともあり、真田信繁は生涯のかなりの多くの時間を人質として翻弄される運命を辿るのでもありました。高野山に島流しにあうこともありました。
武将としては父・昌幸が上!しかし人気は?
武将としては父親の昌幸が大変輝いていたこともあり、幸村自信の武将としての評価は史実としては盛られているといわれています。
しかしながら、現代において真田幸村のファンが多いことは、生涯敵対した徳川家康に真田十勇士を従えたことが影響しているでしょう。
果敢に挑み続けた戦人としての生き様を庶民に親しまれやすい小説や物語として広く知られたのです。そんな中で彼のもののふとしての心や男気溢れる人柄に人々が魅了され続けているからではないでしょうか。
実際に性格も一本気で歪んだところのない人柄だったといわれています。人質としての多くの人生を歩んだ真田幸村は心から武将としての男気が生涯曲がらずにありました。
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