戦国時代にその名を馳せた勇将、真田幸村(信繁)。戦国の合戦場だけでなく、今では数多くの小説や漫画、ゲームなどでも活躍し、没して四百年余り経った今でも人々を魅了してやみません。
2016年には真田幸村を主人公に据えた大河ドラマ「真田丸」も人気で視聴率も好調の状況をキープしています。堺雅人さん演じる真田信繁が昌幸(草刈正雄)さんの元で人質になったりしながら成長する様が楽しいですよね。
なので、今後ますます彼のファンは増えそうですね。そんな真田幸村の誕生日ですが、正確な年月日はわかっていません。ただ、幸村の最期に関してははっきりしています。
大阪夏の陣で獅子奮迅の働きをした末に消耗し、神社の境内で休んでいたところを敵方の鉄砲頭に見つかって討ち取られたというものです。これが慶長20年5月7日(西暦1615年6月3日)のことです。
この時点で49歳だったという記録が松代藩の編纂物にあり、そこから逆算して永禄10年(1567年)を誕生日とするのが通説と言われています。
諸説ある幸村の誕生日!
しかし、その説に対する反論もあります。天正13年(1585年)、徳川家と対立した際に父の昌幸が上杉家に救援を求める際、人質として幸村を差し出したことがあります。
その際に幸村のことを幼名の弁丸で呼んでいたという記録が残っているのです。もし真田幸村が永禄10年に誕生したとするならば、この時点では数えの19歳になっています。
戦国時代の19歳というと、もう立派な大人ですから、幼名を使うのはかなり不自然ですよね。また、討ち死にした時点で46歳だったという史料もあります。こちらを採用した場合、誕生は永禄13年(元亀元年/1570年)になります。
誕生日の真相は闇のまま!?
前述の弁丸の名を用いた時点では16歳だったことになり、幼名に関してはつじつまが合います。さらに、こちらの永禄13年説では同年2月2日を誕生日としている文献もあります。
ただ、この文献はかなり時代が下ってから子孫によって書かれたもので、信憑性に関してはなんとも言えません。以上のように、真田幸村の誕生日に関しては諸説あり、真相は未だ闇の中です。
これまでも、そしてこれからも、幸村出生の真相をめぐって熱い議論が繰り広げられることでしょう。その探究の原動力となるのは、歴史の謎を解き明かしたいという好奇心ばかりではありません。
その根底には、真田幸村その歴史上の人物に対する愛が確かにあるのです。だからこそ、敗軍の将であるにもかかわらずこれだけの人気があるのです。
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