真田幸村(堺雅人)は今でも人気のある戦国の武将です。ただこれは多分にアニメまたはゲームの影響といったものも多くあると考えられます。
真田幸村は関ヶ原の戦いにおいて徳川に敵しました。豊臣方についたのです。このため、高野山に蟄居、謹慎という処分が下されて高野山にやってきます。
このとき兄の信幸(大泉洋)の助命嘆願によってかろうじて命を助けられたのではないかといわれています。真田幸村と父の真田昌幸(草刈正雄)はこの戦いでもかなりの損害を徳川に方に与えているので、徳川方としてはかなり処分を考えたと思われます。
真田幸村の高野山での生活とは?
さて、この高野山での生活というのはかなり厳しいものであったといえそうです。あまりの寒さの為に庵を九度山に移したとされています。ここに立っているのが善名称院で別名で真田庵といわれています。
ここでの暮らしも、かなり厳しいものであったようです。というのは、今でもこの兄にお金を無心する手紙が残っており、出来るだけ早くお金を送ってほしいといった切羽詰まったような文面もあり、なかなか厳しいものであったことも想像できます。
借金があり生活が厳しい、至急お金を20両、それがだめなら10両、せめて5両でもといった文面からはかなりの苦しい状況にあったことが想像されますね。
蟄居、謹慎とはいってもかなりの数の家臣を伴っていたようですから、彼らの分も必要としたのでしょう。家臣のことを考えるあたりも真田信繁らしいところですね。
真田信繁が正しい名前?
この真田幸村という名前は実は実名ではなく、幸村という名前で書かれた手紙などもありません。この名前は軍記物語でこの名前が使われたことによって、この名が広く知られるようになったようです。
実名は信繁が正しく、出家をしたときに好白という名を使ったこともあるようです。ただ、現代ではこの幸村の名の方が圧倒的に使われることが多いので、この名が定着してしまうことになりました。
徳川という大きな力の対抗して勇ましく戦ったこの幸村という人が大きく注目されたのですが、この高野山での暮らしといったものは幸村にとっては、とてもつらいものだったのかもしれません。
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