真田幸村(堺雅人)は昨今の戦国ブームの中で特に好意的に取り上げられ、ファンにも受け入れられやすいであろうイメージが付きました。ありていに言ってしまえば「真田幸村はイケメンだった」というような話があるわけです。
しかし実際のところ真田幸村がイケメンだったのかと言うと、少々難しい部分があると言わざるを得ません。まず戦国時代の人物において、正確にその風貌が読み取れるような資料は存在していないということは先に述べておきましょう。
日本にカメラが伝来したのは1841年のことでしたから、戦国時代の武将の顔が写っている写真は存在するはずがありません。
そのため文献や肖像画から読み解くしかないのですが、真田幸村の風貌について触れている文献としては「長沢聞書」という文献が出てきます。
長沢聞書による真田幸村とは?
これは真田幸村と同じく大阪夏の陣に参戦していた後藤又兵衛の配下である長沢九郎兵衛が書き記したものです。そこには「真田左衛門佐は四十四、五にも見え申し候」とあり、そして「ひたひ口に二、三寸の疵あとこれあり」、「小兵なる人にて候」と続いています。
要するに、大阪夏の陣で永沢九朗兵衛が見た真田幸村は45歳くらいに見える顔で、額と口に6センチほどの傷跡があり、そして小柄な人物であったということになります。
このころの成人男性の身長は150センチほどであったにも関わらず「小柄な人物だった」と評しているわけですから、身長は140センチ程度しかなかった可能性もあるでしょう。
その頃の真田幸村を記した別の手紙には「40歳に入ったころから老けこみ、髪は白く歯は抜けてしまった」ともあります。
本当はイケメンじゃなかった真田幸村!!
なので、これらの情報を総合すると大阪夏の陣の頃の幸村は身長140センチほどで年齢よりも老けて見え、白髪で歯の抜けた男だったということになります。
もちろん外見がどうであれ、その生きざまや幸村にまつわる伝説には男らしさ、英雄としてのカリスマにあふれたもの多くあるわけです。なので、性格などはイケメンと評するにふさわしい人物だったかもしれません。
ただ風貌については残念ながら「現代人のセンスからするとイケメンとは言い難かった」というのが事実だと考えられます。衝撃的な内容になっていますが、ご参考にしていただけたらと思います。
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