歴史上の人物である真田幸村(堺雅人)には、熱い注目が寄せられています。ドラマにもなることが多く、悲劇の武将としての側面もあって、多くの人の共感を呼んでいる人です。
この真田幸村というのは、本名は真田信繁といい、江戸時代になってからの小説や講談で語られるときの通称なのです。もっぱら、大坂夏の陣以降に呼ばれるようになったのです。
豊臣秀吉(小日向文世)が亡くなった後、関ヶ原の戦いにおいて、父の昌幸(草刈正雄)と共に西軍に加わりました。真田幸村の兄・信之(大泉洋)は東軍につき、兄弟で敵対することとなったのです。
それは兄弟仲が悪かったわけでは決してありません。合戦の結果がいずれになっても、真田家としては家を残せることになるので、あえて、分かれた形を選択したのです。
結果としては、西軍が破れました。真田幸村は蟄居を命ぜられ、出家することとなりました。本当は、真田親子については打ち首になるはずだったのですが、兄の信幸の頑張りもありなんとか高野山に島流しですんでんな。
敗軍の将、真田幸村の逸話とは?
その後、大坂冬の陣、夏の陣を経て、江戸の徳川方が勝ち、幸村は49歳の生涯を閉じることとなりました。負けたとはいえ、勇敢な戦いぶりに賞賛の声も多く寄せられました。
関ヶ原合戦前の上田城では、38000人の徳川軍に2000人で立ち向かい、大坂冬の陣では土作りの出城からの攻撃を仕掛けます。大坂夏の陣では、一時は徳川家康(内野聖陽)に死を覚悟させるほどの猛攻を見せました。
こんな真田幸村ですので、逸話には事欠きません。まず、幸村の名前の由来ですが、真田家では、名前に「幸」使うのが一般的になされていました。
伝説の真田十勇士とは?
「村」は、徳川家に災いをなしたとされている妖刀の村正からとった、との説が有力です。真田十勇士なる言葉をよく聞きます。真田幸村に仕えた10人の家臣のことを意味していて、猿飛佐助がとりわけ広く知られています。
ほかにも、甲賀忍者の霧隠才蔵や武田信玄の弟の穴山小助などが有名です。ただし、講談の中で作り上げられていった勇士たちですので、実在したかどうか、疑問視する向きも少なくありません。
真田幸村にまつわる逸話として、最も彼らしい言葉が残っています。追い詰められ、敵に見つかったとき、「わしの首を手柄にされよ」の言葉は、まさに真田幸村の生きざまのすべてを物語っています。
コメントを残す