戦国武将の中でも上位の人気を誇り、ドラマや小説、ゲームなどの様々な題材に登場する真田幸村(堺雅人)。そんの真田幸村の実際の功績にはどのようなものが合ったのでしょうか?
真田幸村が生まれたのは1567年、真田昌幸(草刈正雄)の次男として生まれました。幼少期から幸村は上杉家や豊臣家の人質として生活しており、活躍したのは関ヶ原からになります。
関ヶ原の戦いでは、第二次上田合戦にて父親の真田昌幸とともに徳川軍と戦いました。この戦によって真田軍は徳川軍を1週間も足止めすることに成功し、数多くの損害を与えました。
その結果、徳川秀忠率いる軍は関ヶ原本戦に参加することが出きず、戦況に大きな影響を与えたと言われています。
関ケ原で西軍が敗れる!
しかし、真田軍が所属していた西軍は敗れてしまい、幸村は九度山に幽閉されることになってしまいます。その後、九度山で何年か過ごした後、大坂冬の陣、大坂夏の陣がおこります。
この戦いは真田幸村最大の功績と言ってもよいもので、幸村は豊臣方として参戦し、徳川軍に大きな損害と恐怖を与えました。まず、1614年に起きた大坂冬の陣。
この戦いで幸村は「真田丸」と呼ばれる出城を築き、攻め寄せる徳川軍を撃退しました。現在では有名な幸村ですが、当時はこの戦にてはじめて武名を天下に轟かせました。
このように活躍した幸村と真田丸ですが、豊臣軍と徳川軍は講話し、なんと真田丸が埋め立てられてしまいます。そのことが今後に大きな影響を及ぼします。
幸村、最後の戦いとは?
そして、豊臣軍と徳川軍の関係が悪化した1615年、真田幸村最後の戦いである大坂夏の陣が開戦します。この戦いで幸村は道明寺の戦いに参加し、徳川軍の先鋒である片倉重長を後退させることに成功します。
しかし、幸村以外の武将は皆苦戦し、豊臣軍は次第に押されてきてしまいます。そこで真田幸村は徳川軍本体に突撃し、総大将である徳川家康(内野聖陽)を打ち取ることで勝利しようと考えました。
この時の突撃は凄まじいものであり、真田幸村の名声を高め、真田日本一の兵なり、と敵に言わしめる程の奮戦でした。そして、徳川家康が自害寸前まで追い込まれたことは伝説になっていますよね。
コメントを残す