真田幸村の命日はいつなの?

「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」。これは真田幸村がこの世に最後に残した言葉であるとして伝えられる言葉です。この言葉にはさらに「我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」と続きます。

 

これらを要約すれば「このような不安定な世情なのだから明日のことすらわからない。我々のことはこの世にいないものとして考えてほしい」といった内容になります。

 

英雄真田幸村(堺雅人)はこの言葉をしたためた手紙を小山田茂誠(高木渉)宛てに送っています。その後、旧暦でいうところの1615年5月7日、四天王寺近くの安居神社の境内にて幸村が休んでいるところを西尾宗次に討ち取られました。





幸村の命日は6月3日!?

この5月7日という日付は旧暦に置いてのことですから、新暦に正せば真田幸村が討ち取られた命日は西暦1615年6月3日となります。これが現在に伝えられているうちで最も信憑性の高いものになっています。

 

史実において真田幸村はこの際に間違いなく討ち取られてその首は徳川家康(内野聖陽)のもとに届けられているからです。なので、一般的には真田幸村の命日は6月3日と考えて良いでしょう。

 

ただしかし、現代を生きる人が過去のことを知るには文献を読んだり、伝説を知るほかありません。そしてその伝説において、実はこの真田幸村の命日は実は間違いだったのではないかと言うような話もあるのです。





真田幸村生存説とは?

これがいわゆる「真田幸村生存伝説」です。この伝説は九州鹿児島に色濃く残っております。このあたりが真田幸村という人物を余計に魅力的なひとにしているともいえますね。

 

その伝説の中では「大坂夏の陣で討ち取られたのは、幸村の影武者である穴山小助であり、本物の幸村は落城した大阪城から豊臣秀頼(中川大志)を救い出して薩摩まで逃げた」と伝えられています。

 

その後、幸村一行は薩摩で静かに暮したものの心労から幸村が倒れ、そして秀頼も自身を救い出してくれた幸村の後を追うようにひっそりと亡くなったとされているのです。

 

実際に現在の鹿児島市谷山には「伝・豊臣秀頼の墓」とされる宝塔がありますから、伝説自体は古くから伝えられています。その伝説の信憑性については定かではありません。

 

もちろん大勢の敵に囲まれた大阪城から豊臣秀頼を救い出して九州まで逃げのびるなど難しいどころの話では無いのですが、こうした伝説が残るのも真田幸村の面白さであると言えるでしょう。





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