「日本一の兵」と呼ばれ、現代でも大人気の戦国時代の武将・真田幸村(堺雅人)。徳川家康(内野聖陽)を追い詰めた、彼の大坂の陣での活躍は現代でも語り継がれています。
そんな幸村の最後、そして彼の首ついて今回書かせていただきます。まず真田幸村についてですが、今でこそ戦国時代の武将の名前を挙げたなら、かなりの確率で名前が挙がります。
しかし、実は彼の名が初めて世に知られたのは大坂冬の陣での「真田丸」の戦いがあってからです。家康は幸村の父である昌幸のことは恐れていたようですが、幸村のことはさほど気に留めていなかったようです。
家康が脅威を感じていた幸村の最後とは?
しかし、「真田丸」の戦いでの幸村の活躍を耳にし、冬の陣後に幸村の叔父を使者として送り、二度にわたって徳川に降るよう説得したそうです。
一国を与えるとまで言っていたようで、家康がどれほど幸村を脅威と見ていたかがよく分かります。そして夏の陣での幸村ら真田隊の奮戦は凄まじく、三度徳川本陣に突撃を繰り返しました。
これにより徳川家康は二度も自害を覚悟したそうです。しかし、さすがに疲労し安居神社で休息をとっていたところを発見され、最後を迎えました。幸村は最後の抵抗をしたとも、覚悟を決めて大人しく討ち取られたとも言われています。
幸村の首は偽物だったの?
徳川の陣へ持ち帰られた幸村の首ですが、なかなか本物と認められませんでした。なぜなら首を取った西尾宗次が幸村の最後を吹聴したためでもあります。
さらに幸村には多くの影武者が存在していたと言われており、持ち帰られた首も影武者であるという疑いがあったからです。そのために、本人であると特定するのに時間がかかったのです。
本物であると認められると、徳川軍の武将たちが幸村の武勇にあやかろうとこぞって首に群がり遺髪をむしり、お守りとして身につけたそうです。しかし、幸村は夏の陣で最後を迎えずに生き延びた、という説もあるそうです。
さきほど記しましたが、幸村には影武者がいたため幸村本人は豊臣秀頼を守って大坂城から鹿児島へ落ち延びたという伝承があるそうで、当時わらべ歌として語られていたそうです。
現地には墓も作られているそうで、真田幸村の名が庶民にまで知れ渡り、力を持った強者に立ち向かった英雄として多くの人に慕われていたのでしょう。
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