真田幸村(堺雅人)は戦国ファンなら名前を知らないはずはない、という武将です。2016年2月からは大河ドラマ「真田丸」でも取り上げられることとなり、これからますます人気が出てくる武将なのではないでしょうか。
そんな真田幸村と並ぶほどファンが多い、戦国最強とも呼ばれる武将がいます。それは、天下統一を果たした徳川家康(内野聖陽)の家臣、本多忠勝(藤岡弘)です。
彼は家康のもとで奮戦し、持っていてた長槍である「蜻蛉切」も天下三名槍に数えられたほどの猛将ですが、実は、彼も真田幸村と繋がりがあったということをご存知でしょうか。
実は、本多忠勝の娘、小松姫(吉田羊)は政略結婚で、真田幸村の兄である、真田信幸(大泉洋)の正妻となっているのです。そのあたりで大きくかかわりがありますね。
小松姫と信幸の結婚に幸村が関係してた?
そして、彼女が信幸の元へ嫁ぐことになったのも、幸村が少しばかり関係しているのです。小松姫は1573年、忠勝の長子として生まれました。幼名は稲姫と呼ばれていたそうです。そして結婚のきっかけとなったのは1584年7月のことでした。
武田氏滅亡後、上田城を本拠地としていた真田幸村の父、真田昌幸(草刈正雄)の討伐を開始しました。攻め込む徳川勢は7000人。受ける真田勢は1200人しか兵がいなかったと言われています。
どう見ても徳川に蹂躙される結果しか見えなかったこの戦いですが、昌幸、そして息子の信幸、幸村の軍略と奮戦に、徳川勢は退却を余儀なくされました。
この戦いの後、当時の支配者であった豊臣秀吉(小日向文世)の仲介もあり、徳川家と真田家は和睦します。そしてこの際のことです。以前の戦いで真田家の親子3人の軍略にほれ込み、そしてそれに恐れを抱いた本多忠勝。
真田家と徳川家の関係を濃くするための結婚!
そのため、真田家と徳川家の繋がりを深くしようと、自分の娘である小松姫を信幸に嫁がせることを家康に提案したのです。家康も同様に真田家を脅威と感じていたのか、婚姻はそのまま成立します。
ですが、これが後に昌幸、幸村の二人と信幸とが敵対勢力となってしまう悲劇に繋がります。関ヶ原の戦いで昌幸と幸村は西軍に味方し、信幸は東軍に味方することになるのです。
ただ、このことが真田家が後に明治まで続くことにも繋がるので、歴史というのは本当に不思議なものと言えるでしょう。
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