真田幸村(堺雅人)と石田三成(山本耕史)。誰もが一度は耳にしたことのある歴史上の人物ではないでしょうか。真田幸村といえば大坂の陣で大活躍をした武将として有名ですし、石田三成といえば徳川家康(内野聖陽)との関ヶ原の戦いがとても有名ですよね。
そんな二人に共通することというと、「徳川家康を相手に戦をした」という点しか見当たりませんよね。しかし、この二人にはそれ以外にも関りがありました。
真田幸村は大坂の陣での活躍がとても有名ですが、実は幸村個人の名が世に知れ渡ったのも大坂の陣なのです。大阪城に入城したころの幸村の年齢は48歳。この年齢になるまでなぜ彼の名は知られていなかったのでしょうか。
その理由として考えられることは、まず幸村の父である真田昌幸(草刈正雄)があまりに勇猛な武将だったということがあげられるでしょう。
幸村が知られなかったのは人質が長かったから?
さらに幸村の兄・信之(大泉洋)もとても優秀な人物であったため、彼らの陰に埋もれていたのではないでしょうか。それともうひとつ、幸村は人質生活が長かったことがあげられます。
武田家滅亡後、真田家は織田信長に恭順しますが信長は本能寺で討たれてしまいます。その後上杉家に帰属し、その際に幸村は上杉家の人質となります。
しかし、豊臣秀吉(小日向文世)が頭角を現すと豊臣家に帰属、幸村は豊臣家の人質となりました。人質生活を余儀なくされたのは、戦乱の世で真田家が生き残るために仕方のないことだったのでしょう。
これまで書いてきた中で気付かれたかたも多いでしょうが、幸村は大坂の陣以前に豊臣家で暮らしていたのです。これは、大河ドラマ「真田丸」でもたくさん描かれていますよね。
意外な石田三成と真田幸村の関係とは?
さらに幸村の母、つまりは昌幸の正室と三成の正室は姉妹でした。そして、幸村は豊臣家臣であり三成の無二の友である大谷吉継(片岡愛之助)の娘を正室として娶っています。
北条征伐の際には石田三成の指揮のもと、父である昌幸や大谷吉継らとともに忍城攻めに参加しており、のちに官位と豊臣姓を賜ったそうです。残念ながら史実で幸村の豊臣家での生活が分かるような詳しい資料は見つかっていません。
しかし、豊臣家で暮らす中で、幸村と三成はお互いに親交を深めていたことでしょう。関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、三成は最後まで大志を抱きながらも斬首に処されます。
もしかすると、大坂の陣での幸村の奮戦は、「石田三成の志」も背負って戦っていたからなのかもしれません。いや、きっとそのような意思をもっていたのだろうと思います。
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