第二次上田合戦とは、1600年に行われた真田軍と徳川軍における戦です。この戦いにて真田昌幸(草刈正雄)・真田信繁(堺雅人)親子は徳川軍を足止めすることに成功し、4万近い兵士を関ヶ原の合戦に到着させないという活躍をしました。
結果的に真田親子の西軍は関ヶ原の戦いにて敗れてしまいますが、数多くの兵士の参戦を抑えたことが高い評価を得ています。第二次上田合戦にて大活躍したのが真田昌幸です。真田昌幸は優れた智謀によって徳川軍と戦いました。
まず、徳川秀忠に降伏を促された真田昌幸は、「城を明け渡す準備をするので時間がほしい」と数日間の猶予をもらいます。それを信じた徳川軍は数日間待ちますが、一向に返事が来ないので真田軍へと使者を送りました。
真田昌幸の策略!!
そうすると真田昌幸は、「数日間の猶予のおかげで戦をする準備ができた。いつでも攻めてくるといい」と徳川軍に返答したのです。真田昌幸の計略によって徳川軍は騙され、この時点で数日間の足止めをくらってしまいました。
進軍を開始した徳川軍は砥石城を落とし、本格的に上田城へと攻めかかります。その時徳川軍がとった作戦は、田んぼの稲を狩ることによって真田軍をおびき出し、撃退するというものでした。
そして、徳川軍の作戦通りに真田軍はあらわれ、戦いに敗れた真田軍は撤退していきます。しかし、この撤退は本当のものではなく、反対に徳川軍を誘い込む策略だったのです。
徳川軍に仕掛けた罠!!
勝利に気を良くした徳川軍は上田城へと攻め込みますが、そこで真田軍が門を開き、徳川軍に一斉砲撃を行います。さらに、虚空蔵山に伏せていた兵士が突撃し、徳川軍は大混乱に陥りました。
それに加えて、撤退しようとする徳川軍が川へと入りこんだ時、堰き止めていた川の水を流すことによって多くの徳川軍を足止めすることに成功しました。
第二次上田合戦で活躍した真田昌幸によって、徳川軍は大きな被害をうけ、さらに関が原にも間に合うことができませんでした。この時の真田昌幸の活躍は、素晴らしいものだったといえるでしょう。
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