西郷隆盛と大久保利通の関係を暴露!

このページは、2018年の大河ドラマ「西郷どん」で描かれている西郷隆盛大久保利通の本当の関係についてお伝えしています。

 

西郷隆盛を語る上で切っても切り離せないのが、同じ明治維新を成し遂げた大久保利通になります。西郷どんでは幼馴染として描かれています。

 

しかし、大久保利通と西郷隆盛は征韓論争の時に対立し、西郷が職を辞して鹿児島に帰ってしまったため、仲が悪いイメージがあります。

 

実際のところ、二人はどのような関係だったのでしょうか。そこで今回は、西郷隆盛と大久保利通の二人にスポットをあてて、幕末から明治維新を見て生きたいと思います。

 

二人は鹿児島城下、下級武士の住む地域「下加治屋町」でともに育った仲です。大久保利通は、もともと甲突川(城下を流れる川)を挟んだ対岸の高麗町に生まれましたが、その後下加治屋町に引っ越してきます。

 

大久保利通の父、利世は陽明学(中国明時代に起こった儒教の一派)に精通し、西郷は教えを請いに大久保家に通っていました。

 

また、薩摩には郷中教育といって、町単位で年長者が年下の教育を担う仕組みがありましたので、ほとんど毎日顔を合わせていました。

 

西郷隆盛は大久保利通の3つ上

西郷は大久保より三つ年上で、西郷が大久保の面倒を見たこともあったでしょう。西郷は17歳になると、郡方書役助の任につきます。農村行政の一つで、作柄から年貢を割り当てる仕事でした。

 

農民が年貢を納めるため日々苦労している姿を目にした西郷は、現場に徹した徳治政治を理想としていきます。同じく大久保利通も17歳になると記録所書役助の任につき、行政について学んでいきました。

 

そのうち、島津藩主の後継者をめぐり、世子である斉彬を擁立したい派閥と、側室お由羅の子久光を擁立したい派閥との間で、お家騒動が起こります。(「お由羅騒動」嘉永3年:1850年)。

 

このお家騒動に連座して、斉彬派であった大久保利通の父、利世が流刑になり、利通も記録所書役助の仕事を罷免されました。

 

大久保家が困窮のなか、西郷も経済的に余裕があったわけではありませんでしたが、失意の大久保を援助したり、禅の修練に誘って一緒に鍛錬を積むなどしました。

 

やがて斉彬派の工作もあり、薩摩藩主に島津斉彬が就任します。大久保利通はお由羅騒動の謹慎を解かれ復職しました。西郷も斉彬に才能を見出されます。二人は幕政改革を掲げる藩主のもとで、知見と人脈を広げていきました。

 

しかし、島津斉彬が井伊直弼の起こした安政の大獄に異論を唱え、率兵上洛を計画していたところで急死します。薩摩藩主の急死と安政の大獄の混乱で、西郷自身も失脚し奄美大島に流されます。

 

大久保利通の出世

一方、薩摩では、斉彬の死後、久光の子忠義が藩主として就任し、久光が後見役となっていました。大久保利通は島津久光に取り立ててもらい、藩政の中核の一人として出世していきます。

 

安政7年(1860年)3月、桜田門外で井伊直弼が暗殺されると、長州藩が幕府を中心とする「公武合体開国論」を唱え国策に乗り出てきました。長州藩に対抗し、大久保利通は朝廷工作を行おうとしますが失敗に終わります。

 

朝廷主体での公武合体を目指す島津久光と大久保利通は、率兵上京を画策しますが、これに合わせて一部の過激派が討幕運動を起こす動きがありました。過激派を抑えることができる人物は西郷隆盛しかいないと大久保は考えます。

 

しかも西郷は朝廷にも顔が利きます。大久保は久光を説得し、西郷隆盛は赦免され、鹿児島に戻ります。当初、西郷隆盛は久光に協力することに乗り気ではありませんでしたが、大久保の説得で協力することにします。

 

しかし、わずか4ヶ月後に、久光の待機命令を無視して上洛したため、捕縛命令が出されてしまいました。大阪や京都では、久光の率兵上洛に合わせて、藩内外の尊皇攘夷派が不穏な動きを見せていました。

 

久光の兵が到着したら、攘夷派は暴動を起こすかもしれないと判断しての上洛でしたが、久光は聞き入れませんでした。大久保利通は、このとき西郷隆盛と刺し違える覚悟で、浜辺に呼び出し、罰を受けるよう諭しています。

 

西郷隆盛は大久保の意見を聞き入れ、鹿児島に送還されました。そして再び流刑となり、奄美大島よりも遠い沖永良部島へ流されたのです。

 

西郷隆盛が流刑に服している間も、幕府と朝廷、諸藩は尊皇攘夷論と公武合体論の間で政局は揺れ動きます。薩摩藩は攘夷派の鎮圧を孝明天皇から依頼されたこともあり、幕府側である会津藩と手を組んでいました。

 

そのため諸藩からの信頼を失い、薩摩藩の掲げる公武合体論も行き詰まります。そこで、再び西郷隆盛の名が出てきました。大久保利通はまたしても西郷を沖永良部島から呼び寄せるように久光を説得します。





明治維新と大久保利通との対立

沖永良部島から戻った西郷隆盛は、会津との連携を破棄し、京都で情報収集と兵の訓練に努めました。一方、大久保利通は、鹿児島で長州征伐に向けて朝廷への建言書を書き、西郷と書簡で連絡を取り合うなどの留守役に徹します。

 

長州征伐後、大久保利通は京都に上がり、朝廷での発言力を強めていきます。大久保は公家の岩倉具視と協力し、西郷隆盛は他藩の志士らと討幕にむけて動きだします。日本は薩長同盟から大政奉還を経て、明治時代を迎えます。

 

しかしながら、討幕に向けて一丸となっていた西郷隆盛と大久保利通は、明治政府発足後、征韓論をめぐり対立することになります。明治政府は、旧幕府軍との対立を経て、版籍奉還と廃藩置県など改革を断行しました。

 

支配階級であった武士の身分がなくなり、家禄もなくなります。多くの武家が没落し、士族の間で大きな混乱と不満が生じるなか、大久保利通は岩倉使節団の一員として政府を留守にします。

 

内閣に残った西郷たちとは、外遊中は重要な施策は行わないという「十二ヶ条の約定書」を結びます。しかし、視察を終えて日本に戻ると、西郷ら留守政府が、約定書を無視して、徴兵令、地租改正などの社会改革を行っていました。

 

さらに、西郷隆盛が朝鮮に派遣されることが決まっていたのです。朝鮮は当時清国を宗主国として、鎖国政策を維持しており、国内では攘夷運動が吹き荒れていました。

 

欧米に対して門戸を開いた日本をよく思っていなかった部分もあったでしょう。明治政府は幾度も新政府発足を通告していましたが、外交文書の受け取りを朝鮮は断っていました。

 

この態度に政府の一部の者は激怒し、武力開国を唱えました。しかし、政府はあくまでも外交のルールにのっとり、相手に敬意を払ったうえで幾度も交渉しようとしました。

 

しかし、明治6年に朝鮮は日本との国交を断絶し、朝鮮にあった倭館を閉鎖したのです。いよいよ武力行使も辞さないという状況まできていました。

 

しかし、西郷隆盛は、武力ではなく、まずは大使として平和裏に朝鮮と話を付けるつもりでありました。そして、交渉に失敗して自分が朝鮮側に殺されるようなことがあれば、それを口実として軍を送り征伐すればいいとさえ考えていました。

 

ところが、欧米諸国の巡遊を終えて、圧倒的な差を見せつけられた大久保たち留学組は、一刻も早く内政を整える必要があり、他国と戦争をしている場合ではないと考えていました。

 

朝鮮派遣は戦争を引き起こし、最悪西郷を失う可能性がありました。大久保利通は派遣停止を天皇に促します。政府内でも西郷と大久保両者の間で議論は荒れたといわれています。

 

西郷隆盛が挙兵

結局、西郷隆盛の朝鮮派遣は取り消しになり、西郷隆盛は職を辞して鹿児島に帰ります。鹿児島へ戻った西郷隆盛は、新体制に不満を抱く旧藩士たちを私学校に受け入れ、外国との戦争が起きたときに備えていました。

 

明治9年の廃刀令により、我慢の限界に達した不平士族の反乱が日本各地で起こると、私学校徒のなかにも、決起を唱える者がでました。しかし西郷がその都度、はやる青年たちを制して、中央政府と対立しないようにしていました。

 

明治政府も状況を知るために密偵を派遣しますが、大久保利通は「西郷がいるから鹿児島は大丈夫だ」と言います。しかし、私学校徒は密偵の存在に気づき逮捕し、強要させ、西郷隆盛の暗殺を自白させます。

 

密偵が持っていた電報に、「ボウズヲシサツセヨ」との文言がありましたが、この「視察」を「刺殺」と解釈したために、私学校徒らの怒りは爆発。西郷隆盛の名のもとに挙兵し、西南戦争が始まります(明治10年:1877年)。

 

大久保利通は、西郷隆盛が兵を挙げたと聞いて、最初は信じることができませんでした。本当だと分かると、大久保は涙を流したといいます。西郷を説得しに鹿児島に行こうとします。

 

しかし、周囲の制止と、多忙な政務のためにそれは叶いませんでした。結局二人は再会することなく、西郷隆盛は城山で自決します。明治天皇をはじめ西郷を知る者は、彼の死を惜しみました。

 

反対に、大久保利通は西郷を死に追いやったと恨まれることになります。西南戦争から1年も経たずして、旧藩士に襲撃され、無残な形で暗殺されたのでした(明治11年:1878年)。

 

大久保利通の最後

大久保利通が暗殺される寸前まで読んでいたのは西郷からの手紙だったといわれています。大久保は何を思って西郷の手紙を読んでいたのでしょうか。

 

西郷は戦争の責任を取り自決し、大久保は暗殺されるという、明治維新を成し遂げた英傑二人の最後は壮烈なものでした。西郷隆盛は人をひきつけてやまない魅力があったといわれています。

 

誰からも好かれる人物であり、どちらかというと感情豊かで義理に厚く、対外交渉に向いていた人物だといえます。大久保利通は身分や出自にはこだわらず、適材適所で人材を使うことに長けていました。

 

行政面に向いており、感情を排して着々と政務をこなす人物でした。明治維新後、西郷隆盛は民を中心にすえる徳治国家を理想とし、大久保利通は中央集権国家を築こうとしました。

 

二人の理想が違ったために、袂を分かつ結果になりましたが、郷中教育でともに育ち、大久保利通はお由羅騒動時の罷免で、西郷隆盛は二度の流刑で、ともに苦難を味わった間柄です。

 

そうであったからこそ、薩摩藩主導での明治維新を成し遂げることができたのだといえるでしょう。大河ドラマ「西郷どん」で最後隆盛大久保利通がどのように描かれるのか楽しみですね。