このページは、西郷隆盛が西南戦争をなぜ戦ったのか。その役割はどんなものだったのかについて詳しくお伝えしていきます。
西南戦争は明治10年(1877年)2月に、九州で起きた国内最大にして最後の不平士族の反乱といわれています。
その盟主は明治維新を成し遂げ、英傑の一人として称えられる西郷隆盛でありました。鹿児島では、西南戦争は、「桐野どんの戦争」と呼ばれていました。
「桐野どん」とは、西郷のもとで働いていた旧藩士、桐野利秋のことで、西郷が征韓論争に破れると、ともに下野し、西南戦争を事実上主導した人物です。
西南戦争で、西郷隆盛は旧薩摩藩士らの新政府に対する失望や不満を一手に引き受け、彼らの起こした戦争に黙って殉じたと考えられます。
なぜ西郷隆盛がそのような行動を取ったのかを知るためには、明治維新後の旧藩士たちが置かれた状況を見ていく必要があります。
新政府に対して渦巻く不満
明治維新後、日本は近代国家としての歩みを進めていましたが、維新で活躍した旧藩士たちの間では、新政府への落胆や不満が渦巻いていました。
なぜなら、それまで世直しとして命を賭して戦ってきたにもかかわらず、維新が終わると褒美が少ないどころか、それまでの武士としての特権を奪われていったからです。
明治4年(1871年)1月に行われた廃藩置県が最たるものでした。欧米列強に対抗できる国家を作るためには、藩閥による政治介入をなくさなければなりませんでした。
しかし、欧米列強のアジア植民地政策に対抗すべく、日本国家の枠組みを考えていた西郷たちの考えとは違い、旧藩士の多くは自分たちの藩や家門のために戦ったという感覚のほうが強かったのです。
それが廃藩置県によって簡単に藩が消失し、武士という階級は消え、家禄もなくなりました。武士階級は一気に失業状態に陥ったのです。西郷は明治維新でともに闘ってきた旧藩士たちの扱いに苦慮することになります。
明治6年(1873年)の徴兵制導入にしてもそうでした。徴兵制導入の問題に際して、政府は国民皆兵制度にもとづき軍隊を編成したいところでした。
しかし旧藩士の中には、軍隊に入る特権を確保するために、士族の志願兵のみで軍隊を構成するよう主張するものもいました。その筆頭が桐野利秋であり、西郷子飼いの旧藩士たちでした。
西郷は「恨みは私が引き受けもんそ」と語り、徴兵制を施行したといいます。廃藩置県以降、旧藩士は失業状態である上に、軍隊に入ることも保証されないとなると、どうやって生きていくかが問題となります。
教師や警察官などの公職に就くといっても数に限りがあります。武士のなかには商売に転向したものもいたそうですが、成功を収めるにはよほどの才能や人脈がなければ難しいことでした。
西郷の発言は、武士が置かれた状況を慮ってのことだったと思われます。徴兵制を導入した年、西郷は大久保利通との征韓論争に敗れます。西郷は職を辞し、鹿児島へ帰郷します。
鹿児島に戻った西郷隆盛
同じく征韓論を唱えていた旧薩摩藩士たちも西郷の後を追っていきます。後の西南戦争を主導する桐野利秋も、このときに職を辞し帰郷しています。この政変は、参議の半数や、官僚、軍人約600人が辞職する大規模なものでした。
鹿児島に戻った西郷は、農作業や狩りにいそしむ田園生活を送ります。そして、士族の授産事業にも注力し、不平士族の受け皿として、私学校を創設しました。
当時鹿児島の県令は西郷の盟友でもあり、私学校の創設に資金を提供します。桐野利秋も鹿児島郊外の故郷吉野村で開墾事業の指導に励みました。
やがて鹿児島県内に分校も設立され、県内の要職に私学校幹部が就くようになると、私学校は西郷隆盛の私兵の様相を呈してきます。
私学校徒のなかには、過激な主張をするものもいましたが、西郷がそれを制し、政治的な発言を極力避けていました。西郷の下で団結力もあり、軍事力も大きく、影響力を持つ私学校は、政府にとって脅威でありました。
明治9年(1876年)2月、明治政府は、朝鮮との外交を開始します。これにより征韓論者の名目がなくなると、政府は廃刀令を施行し、旧特権階級の廃止・縮小に乗りだします。
怒りが爆発した旧藩士たちは、熊本の「神風連の乱」や山口の「萩の乱」など、各地で反乱を起こします。その中には、明治6年の政変で西郷とともに中央政界を去った者も含まれました。
武器の強奪が引き金に
鹿児島に飛び火し、いつ反乱が起きてもおかしくないと判断した政府は私学校に密偵を送り込みます。また、鹿児島には、日本有数の火薬工場がありました。
陸軍は私学校に万が一反乱において火薬を使われてはならないと、秘密裏に武器弾薬を運びだそうとしていました。私学校の青年らはこれに激昂し、火薬庫に押し入って武器弾薬を奪い取ってしまいます。
官営とはいうものの、鹿児島にある火薬・武器工場は、かつては薩摩藩が資金を投じて作ったものでした。旧藩士の目には、工場から勝手に弾薬を持ち出す政府のほうが、自分たちの武器弾薬を盗み取ろうとしているように見えたのかもしれません。
大久保利通は「西郷がいるから鹿児島は大丈夫だ」と思っていました。しかし、事件が起きたとき西郷は狩猟で不在であり、事件の報告を受けたのは二日後のことでした。
このとき西郷が「しもた!(しまった!)」と叫んだことはよく知られています。狩猟から急ぎ戻ると、西郷は生徒たちに「おはん(お前)たちは何ということをしでかしたのか!」としかりつけたそうです。
政府に私学校への制裁を行う口実を作ってしまったも同然でした。ちょうど同じころ、政府が送り込んだ密偵の存在も露見します。脅迫の側面も強かったと思われますが、逮捕された密偵が西郷の暗殺を供述します。
西郷隆盛の死
激昂した私学校徒らは講堂に集まり、軍議を始めます。軍議は桐野利秋の主導で行われ、挙兵へと結論が収束したとき、それまで黙って話しを聞いていた西郷は、「おいの身体差し上げ申そう」と言ったとされます。
明治10年(1877年)2月15日、熊本城へ進軍したことで西南戦争は幕を開けますが、新式の武器を持つ徴兵主体の政府軍に押され敗走を重ねます。そして9月24日、鹿児島城山にて西郷は自決し、私学校徒たちも討ち死にします。
西南戦争とは、江戸の幕藩体制から明治の官僚国家へと日本が変わるなかで起きた旧藩士による反乱です。西郷隆盛は、それまでの戦では自身が先頭に立ち舵を切ってきました。
しかし、西南戦争では、桐野利秋ら私学校徒に軍の指揮を任せ、ほとんど口を挟むことはありませんでした。新しい時代と旧体制との狭間で生じた矛盾や、旧藩士たちの不満を一手に引き受け、責任を取ったとも考えられます。
西郷は情に厚く、だれからも好かれる人物であったといいます。維新の際に犠牲となった者、近代という新しい時代に適応することができなかった者をさしおいて、自分だけ生き延びることを良しとしなかったのかもしれません。
その後、反乱は収束にむかいました。日本は官僚国家としての体裁を整えていきます。西郷隆盛は、日本を欧米諸国と対等に渡り合える国家にするため、足かせとなった武士の古き体制を精算する役割を果たしたのではないでしょうか。
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