豊臣秀吉(小日向文世)が晩年、認知症に罹っていたと述べたのは、黒鉄ヒロシさんだったでしょうか。53歳で全国統一を果たすまで、その才覚を遺憾なく発揮、その抜け目のなさ、人を見る目、人の使い方も天下一品でした。
見事天下人となった豊臣秀吉ですが、その晩年は理解に苦しむような行動を繰り返す、という内容だったと記憶しています。まあ、確かに、明国を支配するという夢想を抱いての2度の朝鮮出兵など、その冠たる例かも、ですね。
その2度とも無残な失敗に終わっています。その2回の挙兵の間に、千利休(桂文枝)に切腹を命じ、後継者として関白の位を譲っていた秀次(新納慎也)に謀反の疑いをかけ切腹させたりもしています。
黒鉄さんの認知症説以外では、司馬遼太郎などが「偏執狂の症状」を指摘していますね。『黄金の日々』での故・市川森一さんによる豊臣秀吉の描かれ方もそれに近かったかも。私も実は認知症説には「?」です。
豊臣秀吉の弟・秀長がいなくなったことが理由?
奇行の原因については諸説ありますが、雑兵時代から生死をともにしてきた弟・秀長(千葉哲也)が病死したことは大きかったのではないでしょうか。
豊臣秀吉ほどの才覚は持たなかったものの、温厚なリベラリストにして周囲からの信頼も厚かった秀長は、秀吉の安全装置の役目も担っていました。
やっと授かった愛息・鶴松の病死以来、豊臣秀吉はおかしくなったとの話もありますが、筆者は秀長の死の方が比重は大きかったと考えます。『おんな太閤記』では中村雅俊さんが演じていらっしゃいましたが、あれは適役だったと思います。
出世街道の出発時、秀吉の信頼できる仲間といえば、妻の親族である浅野長政たち、そして蜂須賀正勝、前野長康くらいのものでした。やがて加藤清正(新井浩史)、福島正則(深水基樹)、加藤嘉明ら、身内の育成も行っていきます。
毛利攻略の際に黒田官兵衛が加わったのも大きかったでしょう。しかし、そこにはいつも、弟秀長がいたのです。本能寺の変で信長が急死すると、豊臣秀吉は、明智光秀を破った立役者として、後継者競争の中心となります。
ブレーキが利かない豊臣秀吉!?
丹羽長秀、前田利家たち信長旧臣を家臣団に取り込み、徳川・毛利・上杉など各地の戦国大名を同盟者として帰順させます。しかし、この辺りから、人事の不透明性、気まぐれな処罰、石田三成(山本耕史)によるコミュニケーションルートの独占。
それに反発する派閥間の対立、幼い秀頼(中川大志)を後継者にしようとして秀次とその関係者を粛清する、などという事態に発展していきます。豊臣秀吉の行き過ぎを抑えてきた秀長の不在は、豊臣秀吉のブレーキがきかないことを意味していたのですね。
後に蜂須賀と訣別、丹羽長秀を遠ざけ官兵衛を追いやり、秀次を始めとする多くの昔なじみを粛清し、唯々諾々と従う者だけで周囲を固めていく。それでいて明国の支配という壮大な計画=妄想は片時も忘れない。
最下層から頂点に成り上がりつつ、人を信じなかった独裁者として、明の朱元璋辺りと比較対照する論もあります。しかし、豊臣秀吉の生涯を見つめ直す際、私の頭には、必ず別の男の像がよぎるのです。
晩年の豊臣秀吉はスターリンとかぶる?
己の野心の赴くままに行動したヨゼフ・スターリン。その男がだぶってなりません。スターリンは、理解者であり彼を諌め得る唯一の存在だった最初の妻の死後、権力を手にするとジノヴィエフ、カーメネフなどの旧友を粛清の名の下に死に追いやります。
歴史に名を残す大虐殺をしてのけ国の機能を半ば麻痺させ、それでいてロシア・グルジア民族による大アジア支配計画を本気で目論んでいた、スターリンと晩年の豊臣秀吉の姿とかぶります。
赤の広場で「スターリンはバカだ」と呟いた外国人記者が秘密警察に捕まりましたが、その罪状が、国家元首誹謗剤ではなく、国家機密漏洩罪だった、なんてジョークのような話もありましたよね。
私がもし、豊臣秀吉に診断を下せる立場にいたならば、認知症ではなく、恐らく「誇大妄想癖」とカルテに記したことでしょう。そして、同じように捕まってしまうことになったかもしれませんね。
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