アメリカ南部に生まれ、世界を駆け巡り、文学の灯を絶やさずに生きた女性がいました。その名は、エリザベス・ビスランド。
時代を駆け抜けた、美貌のジャーナリストです。そしてビスランドの人生に鮮やかな足跡を残したのが、日本を愛した作家ラフカディオ・ハーン。後の小泉八雲でした。
彼女の歩んだ道とハーンの交流をたどると、ひとりの女性が時代を超えて示した、知性と友情の輝きが見えてきます。
南部の農園に生まれて
エリザベス・ビスランド(Elizabeth Bisland, 1861–1929)は、アメリカ南部ルイジアナ州セント・メアリー教区にあるフェアファックス農園で生まれました。
南北戦争の火蓋が切られる、わずか2ヶ月前のことです。南部の豊かな自然と戦果の不安が入り混じる環境で、幼いビスランドは敏感な感受性を育んでいきました。
そんな時代の荒波の中で彼女は、自らの知性と才能を頼りに生きる道を選びます。家族は裕福ではなく、暮らしは決して安定していなかったといいます。
その中で、ビスランドには幼い頃から詩作の才能がありました。
十代の頃、彼女は「B.L.R. Dane」というペンネームで地元紙『ニューオーリンズ・タイムズ=デモクラット』に詩を投稿し、ささやかな報酬を得ながら作家としての第一歩を踏み出します。
戦後の南部社会は荒廃していましたが、逆境の中で育った彼女の感性は豊かで、文学や芸術を通じて人間の内面を探る姿勢を早くから持っていたと考えられます。
ビスランドは単なる文筆家ではありませんでした。彼女は誰もが羨む美貌の持ち主でありながら、知性的な文章で鋭い批評や考察を展開する〝文芸ジャーナリスト〟としての才能も開花させます。
若くして男性中心の分断の中で存在感を放ち、その名は急速にニューオリンズ中に広まっていきました。
やがてビスランドは、より大きな世界を求めてアメリカの文壇の中心地、ニューヨークへと活動の拠点を移します。
「サン」紙や「コスモポリタン」誌などで活躍するビスランドは、その才能と容姿から、瞬く間にニューヨークの社交界と文壇の《華》となるのでした。
ニューオーリンズでの出会い
ビスランドの人生と、後に「小泉八雲」として知られることになるラフカディオ・ハーンの人生は、ニューオリンズで交差します。
ハーンは当時、『タイムズ=デモクラット』の文芸部長を務めていました。生まれも育ちも複雑で孤独な魂を持つハーンにとって、ジャーナリズムの世界は生きる場所であると同時に、常に世間との摩擦を感じる場でもありました。
ビスランドとハーンを結びつけたのは、ハーンが新聞に掲載した短編小説『死者の愛』でした。
東洋的な神秘主義と生者と死者の境界を描いたこの一篇は、詩的で感受性の豊かなビスランドの魂を深く揺さぶりました。
ビスランドはこの作品に感動し、作者であるハーンを慕って、彼が働く新聞社に入社するのでした。ビスランドはそこでハーンと交流を持つようになりました。
同じ新聞社で働き、互いの作品に触れる機会があったそうです。ビスランドはハーンの文学的感性に強く惹かれ、のちに彼の評伝を書くまでに深い関心を持ち続けることになりました。
ハーンはビスランドに対して、ときに熱烈な書簡を送りました。それはほとんどラブレターといえるような情熱的なものでした。
ビスランドはハーンを深く尊敬しつつも一人の友人、そして文学上のよき理解者としての距離感を保ち続けたそうです。
彼女が後に編んだ『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』(1906年)は、こうした若き日の出会いがきっかけで生まれた仕事といえるでしょう。
世界を旅する女性記者
1887年頃、ビスランドはニューヨークに移り住み、新聞や雑誌に寄稿を重ねるようになりました。
そして1889年には『コスモポリタン』誌の企画により、記者ネリー・ブライと「世界一周レース」を競うことになります。
ブライは72日で世界を一周し、当時の記録を打ち立てました。一方、ビスランドは西回りのルートをとり、約76日で帰国しました。
ビスランドは旅の途中、日本に短期滞在しています。この日本滞在の経験が、ハーンの人生を決定づけることになります。旅を終えたビスランドは、日本での印象を周囲に語りました。
ハーンとのやり取りの中で「我もまたアルカディアにありき(日本はほとんど理想郷のようだった)」という趣旨の言葉を伝えたとされています。
アルカディアとは、ギリシャ神話に登場する理想郷のことです。
ヨーロッパやアメリカ社会に馴染めず《故郷なき者》として彷徨っていたハーンにとって、ビスランドが語る日本の光景は魂の安息の地「理想郷」そのものとして響いたのでした。
レースの結果はブライの勝利でしたが、ビスランドもまたこの経験をまとめ、『In Seven Stages: A Flying Trip Around the World』(1891年)として出版しました。
この著作は、彼女の知性と観察眼を示すものであり、当時の読者からも一定の評価を得ました。
ハーンがビスランドに対して「あなたが日本について書く本を読みたい」と言われた言葉を、生涯に渡って創作の動機として、心に抱き続けていたといいます。
ビスランドはハーンの魂が求めていた「理想郷・日本」への旅立ちを促した、かけがえのない、精神的な案内人となったのでした。
「八雲」を後世に伝える
1904年、ハーンは東京で急逝しました。心臓発作だったといいます。彼の死は日米双方に衝撃を与えました。
ビスランドはすぐに彼の人生を後世に残すべく動き出し、1906年に『The Life and Letters of Lafcadio Hearn』を刊行しました。
この大著は、ハーンの生涯をたどると同時に、彼が友人たちに宛てた数多くの書簡を収集・整理し、彼の思想や文学観、生活の軌跡を克明に描き出しています。
この本はハーン研究の基本文献として高く評価され、今もなお小泉八雲の人物像を知るうえで欠かせない資料になっています。
ビスランドは序文で「伝記作家が言葉を尽くすよりも、彼が友人に送った飾らない手紙のほうが、彼の謙虚さ、優しい心、ユーモア、そして天に与えられた才能を、より鮮やかに描き出すでしょう」と述べています。
ビスランドの仕事は、彼女自身が文学者であると同時に、記録者としての使命を果たしたのです。
晩年の歩み
1891年に弁護士チャールズ・W・ウェットモアと結婚したビスランドは、その後も文筆活動を続けました。
ニューヨークやロングアイランドで暮らしながら、評論や随筆を執筆し、編集の仕事にも携わりました。1929年、バージニア州シャーロッツビルで67歳の生涯を閉じました。
死の直前まで彼女は執筆活動を続けており、言葉とともに生きた人生でした。67年の人生は、女性がまだ社会進出に多くの壁を感じていた時代にありました。
そんな中、筆一本で世界を旅し、異文化を理解し、そして一人の作家の魂を後世に伝えるという、稀有な輝きを放っていました。
結び
エリザベス・ビスランドは、自らの好奇心と洞察力を武器に、20世紀初頭という激動の時代を軽やかに駆け抜けた女性でした。
ラフカディオ・ハーンとの出会いは、彼女にとって文学的な刺激であると同時に、互いの孤独を慰め、言葉の力を信じ続ける勇気を与えるものだったに違いありません。
ビスランドが収集し、編み上げた書簡や回想があったからこそ、今わたしたちはハーンの心に近づくことができるのです。
遠い時代を隔てても、言葉が人と人を結び、未来へと橋を架けるーー。その静かな情熱は、今もページをめくる人たちの胸に、あたたかな火を灯しています。
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