明治23年(1890年)、宍道湖の湖畔に佇む富田旅館。この宿の主である富田太平は、一人の風変わりな外国人客を迎え入れました。
その男の名はラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)でした。アイルランド生まれでギリシャの血を引く彼は、東洋への憧れを胸に、はるばる日本へとやってきたのでした。
宍道湖畔の宿と出会い
ハーンが松江に到着したとき、最初に身を寄せたのが大橋川沿いの小さな宿「富田旅館」でした。その富田旅館の主人が富田太平です。
宍道湖の朝霧が町を包むなか、異国から来た青年が落ち着いたのは、湯気立つ客間と女将の働きぶりに満ちた場所でした。
富田旅館は後年、現・大橋館へ事業が継承されたとされ、地域では「小泉八雲が最初に泊まった宿」として案内され続けています。
旅の始まりを刻んだこの一角は、静かで大切な出会いの場でした。太平にとって外国人客は初めてではなかったようですが、このハーンという男は不思議な雰囲気を持っていたようです。
物静かで、細い目を更に細めて周囲をじっと観察し、何かを書き留めている。彼は、言葉の通じない異国の地で、日本の生活そのものを理解しようとしているようでした。
そして、その試みは、富田太平という一人の日本人との交流から始まることになります。
当時のハーンは松江で合計およそ443日を過ごし、その滞在のうち富田旅館での逗留は約三か月ほどだったとされます。
以後、彼は借家や武家屋敷の離れへ移り、町の人びとや風景に触れながら日本の見方を深めていきました。
富田旅館はその連続の「最初の章」として、ハーンの日本での物語の骨格をつくる役割を担ったのです。
富田太平と富田家の記憶 〜言葉を超えた交流〜
富田旅館を営んでいたのは主人の富田太平と若女将のツネで、二人は後年、自らの体験を口述して「富田旅館ニ於ケル小泉八雲先生」と題する聞き書きを残したと伝わります。
これらの聞き取りは小泉八雲記念館や市の展示に引用され、富田家の証言は八雲研究や地域史の貴重な一次資料になっています。
口承は語り手の色を帯びることもありますが、複数の資料が交差することで、富田家が八雲の最初の宿を提供したという中心的事実は確かなものとして残ります。
富田旅館の記憶と記録は、細やかな生活の断片に満ちています。ハーンが富田旅館で暮らし始めた頃、まだ日本語をカタコトしか話せませんでした。
食事の際に、毎朝「エッグスフーフー」と独特の発音で言ってきたそうです。太平はその奇妙な響きをすぐに理解し、朝食に熱々の目玉焼きを出したといいます。
またある夜、ハーンはひどく酒に酔ってしまい、人力車に乗ったものの旅館の名前を伝えることができませんでした。
車夫は困惑し、松江の街中を彷徨いましたが、なかなかハーンは宿にたどり着けませんでした。
ハーンは無念のあまり、たまたま通りかかった富田旅館の前で地団駄を踏み、ようやく自分が帰るべき旅館の名前を思い出したといいます。
ハーンが朝に好んで所望したという「エッグス・フーフー(目玉焼き)」の話や、酒に酔って宿の場所を伝えられず町中を車夫に走らせたという愉快な逸話「酔っぱらい伝説」。
太平が後に書き残した記録にも詳しく記されており、ハーンの人間味あふれる一面を今に伝えています。こうした生活の描写は、旅館側の聞き取りや観光案内にも繰り返し登場します。
しかし、より重みを持つのが女中「お信(のぶ)」にまつわる出来事です。お信は目の不調を抱えていました。
ハーンは彼女を松江の眼科医・西川自省(号・潜斎)に連れて行き、治療を受けさせたと伝わります。
西川は当時の眼科で名のある医師であり、この治療に関する話は山陰新聞などにも記録が残されているとされています。
こうした介入が、宿の主人・太平との間に軋轢を生み、結果として八雲が富田旅館を離れ、借家へ移る一因になったという記述も残ります。
資料を照合すると、新聞記事と富田家の口述が交差することで、当時の緊張や配慮のあり方が浮かび上がってきます。
この一連の出来事は、文化や慣習、雇用に対する見解の差が具体的な行為に発展した事例としても興味深いものです。
加えて、ハーン自身が少年期に左眼を負傷して視力にハンディキャップを抱えていたことは、彼が他者の視の苦しみに敏感であった背景の一つと考えられます。
そうした個人的経験が、目の不具合を抱える人への配慮に結びついた可能性は小さくありません。
運命の糸
ハーンが富田旅館に滞在して3ヶ月が経とうとしていた頃、松江は例年になく厳しい豪雪に見舞われたそうです。
寒さになれないハーンは体調を崩し、高熱を出して寝込んでしまいました。太平と女将のツネが看病するも容態はよくなりませんでした。
そこで太平は、ハーンを看病するのにふさわしい人物をと、松江藩市の娘・セツを、世話役として紹介したのでした。物静かで品が良く、それでいて芯の強い女性のセツ。
太平はセツの細やかな気遣いが、異国の地で心細い思いをしているハーンにとって、なによりの手助けになると思ったのでしょう。
セツが富田旅館にやってきてから、ハーンの容態は徐々に回復していきました。ハーンはセツの優しい心遣いと日本的な美しさに魅了されていったのでしょう。
彼の心には、セツに対する尊敬と愛情が芽生えていったのです。それはやがて、二人が生涯を共にするという、大きな決断へと繋がっていったのでした。
太平は、この二人の姿を静かに見守っていました。ハーンとセツが、言葉をかわすよりも心を通わせていることを感じ取っていたのです。
太平がセツをハーンに紹介したことは、単なる病人の世話役というだけではありませんでした。セツとの出会いは、ハーンの人生における重要な決断に繋がっていくのです。
意味と継承――小さな宿が紡いだ物語
富田太平の個人史に関しては公的な伝記資料が乏しく、細部は口承や郷土資料に頼るしかない面が多くあります。
富田家の聞き書き、当時の新聞記事、記念館の展示といった断片を合わせると、「地方の宿が異文化交流の小さな舞台になった」という確かな見取り図が得られます。
現在、旧・富田旅館跡には案内碑があり、松江の観光案内や記念館展示でその位置や逸話を確認できます。
富田家の聞き書きには若女将・ツネの年齢など生々しい断片もあり、家族経営の宿が日常の仕事の中で文化的出会いを受け止めていたことが伝わります。
最後に
富田太平という名は大きな伝記の表紙を飾ることはなかったかもしれません。しかし、富田旅館で交わされた小さな優しさや行き違いが、ハーンの日本での生き方を生み出す糧になったことは確か。
太平が残した記録とハーンへの温かい心遣いは、時を超えて「小泉八雲」の人物像を今に伝え、彼が日本を愛するに至った原点を示しています。
こうして富田太平という人の輪郭を照らしたことで、当時の松江の様子やハーンの存在を、より明るく照らし出しています。
あなたにおススメのページ
花田ツル/池谷のぶえモデルはどんな人?
小泉八雲(ハーン)はどんな人?
小泉セツ(トキのモデル)はどんな人?
ばけばけ ネタバレ,あらすじまとめ
ばけばけ公式ブックはコチラ










コメントを残す