幕末から明治という激動の時代を生き抜いた松江藩士・稲垣金十郎。誠実で気の良い侍というのが第一印象です。
それでありながら、近代化の荒波に翻弄され、武士の誇りを胸に抱きつつも没落の道を歩むことになりました。
その一方で、彼の養女・小泉セツを通じて、世界的作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と縁が結ばれ、日本文化を後世に伝える橋渡しを果たす存在となります。
金十郎の人生は「善良すぎる侍」が直面した、明治という時代の縮図そのものでした。
出生と家系
稲垣金十郎は稲垣金十郎は19世紀前半に生まれ、出雲国松江藩に仕える稲垣家の出身であった。家は禄高百石の「並士」と呼ばれる上級武士であり、藩士千人近い中でも上位に位置する家格でした。
父の代から受け継がれる誠実な家風の中で育ち、幼少期から武士としての責任感と清廉さを身につけていきます。
当時の松江藩は幕末の政局に揺れつつも藩の体面を重んじ、武士に求められるのは忠義と勤勉さでした。金十郎の生来の気質は、この環境でさらに磨かれていきます。
裕福さには限りがありましたが、誇り高い士族としての暮らしは安定しており、彼にとって「武士であること」こそが生涯の拠り所となる基盤となりました。
青年期の稲垣金十郎は、松江藩の命により京都の治安維持に従事した。幕末の都は尊王攘夷派と佐幕派の対立が激化し、町々には不安が渦巻く。
多くの諸藩が輪番で京都守衛を担い、松江藩もその一翼を担った。番所での詰め、夜警の交代、主要寺社や公家屋敷の警固、往来の検分や通行手形の点検など。
日常の任務は細部まで定められ、緊張を強いられた。勤務の終わりには見分の結果や不審者の取扱いを記す書付や口上が求められ、軽率な判断は許されない。
金十郎は与えられた役目を堅実に果たし、騒擾の抑止と秩序維持に尽くしたと伝わる。一方、特定の合戦・戦場への出陣を裏づける一次史料は確認できない。
今回は推測を避けようと思う。重要なのは、実直な実務と規律が彼の内面を鍛え、のちの人生を支える“善良な侍”という基盤を形づくったことである。
養女セツを迎える
稲垣金十郎は、子に恵まれなかったため、幕末の後、幼いセツを養女として迎えた。家の跡と暮らしを守る道を選んだのです。
武家の作法や節度を重んじる家風のもと、彼は厳しさよりも誠実さと情をもって接し、家庭の基調をつくっていく。
養女の成長を支える日々は、倹約と労をいとわぬ暮らしの連続であり、季節の行事や近隣との助け合いを通じて、家の歴史や世の道理を言葉で伝える営みでもあった。
城下町・松江での静かな家内の時間は、武家の矜持と生活の知恵を同時に教える場となり、のちにセツが“語り部”として力を発揮していく素地を育む。
士族社会では、家名と家計を保つための養子縁組は珍しくなく、金十郎の選択も時代の通例に沿うものだった。
ただ、彼のそれは形式にとどまらず、確かな愛着と責任を伴っていた。こうして結ばれた家族の絆は、のちの時代に思わぬ縁を呼び込み、稲垣家の物語に新たな未来を加えていく。
明治初年、士族の家禄奉還が進むなか、金十郎も先祖伝来の家禄を一時金として受け取り、暮らしの立て直しを期して商いに踏み出した。
だが、世慣れた相手に巧みに誘われ、資金は詐欺に遭ったと伝わる。さらに先祖代々の屋敷まで手放す事態に追い込まれます。
相手方の画策により、無実の罪を着せられて訴訟となったと記録に記されている。潔白はやがて示されたものの、裁判費用は家計を蝕み、残されたのは借財と疲弊だけだった。
武士の倫理と近代の金銭取引との齟齬、性急な転業が重なり、稲垣家の没落は決定的になる。以後、倹約と内職で糊口をしのぐ日々が続き、家族の学びや将来計画も相次いで縮小を余儀なくされた。
当時、多くの士族が同様に転業へ向かったが、資本力や人脈、信用の蓄積に乏しい家には厳しかった。金十郎の善良さは交渉の場ではしばしば不利に働き、欺罔を見抜く術にも乏しかったと伝わる。
こうして稲垣家は、名こそ保ちつつも暮らしの基盤を喪い、明治の社会変動の冷たさを身をもって引き受けることになった。
没落した家を支えるため、稲垣家は婿養子を迎える道を選んだ。やって来たのは前田為二という旧士族の青年で、勤勉で働き者と評された人物だった。
彼は生活費の工面や家計再建に尽くし、傾きかけた家の屋台骨を少しでも持ち直そうとした。しかし、古風な武士道観を捨てきれない金十郎。
婿養子の実務的な考えや行動に違和感を抱き、次第に小言や干渉を強めていく。家計を支える立場の為二から見れば、頼るべき養父が経済的にも精神的にも支えにならず、むしろ重荷となっていた。
やがてその齟齬は深まり、為二は家を去る決断を下す。婿養子を失った稲垣家は再び脆弱な基盤に立たされ、金十郎の不器用さと時代への適応の難しさが、家族関係にまで影を落としたのである。
小泉八雲との出会いがもたらした転機
稲垣家にとって大きな転機は、養女セツとラフカディオ・ハーンの結婚であった。1890年に来日したハーンは松江で教鞭をとり、翌年、セツと結ばれる。
これにより金十郎は義父となり、再び家族に明るさが戻った。夫婦は金十郎夫妻を引き取り、同居の生活が始まる。
やがて熊本や東京などへ転居しても、家族は行動を共にし、困窮続きだった暮らしはようやく安定を取り戻した。
八雲は病弱であったが、金十郎は散歩に同行し、時に旅行へも付き添った。彼の誠実な人柄は、義理の婿からも信頼を得ていたと伝わる。
セツは八雲の創作活動を支える「語り部」となり、家庭の温もりが文化的成果を後押しした。金十郎自身が大きな業績を残したわけではない。
だが、この縁は世界的作家を支える基盤を形づくり、彼の名を文化史に刻むことになった。
晩年の金十郎は、義理の婿である小泉八雲とセツ夫妻に支えられ、家族と共に各地で暮らした。散歩や旅に同行した。
孫たちと過ごす穏やかな時間は、困難な人生を歩んだ彼にとって貴重な安らぎであった。甘い物を好む生活習慣が祟り、やがて胃を患うようになる。
1900年11月19日、東京で没したと伝えられている。享年59。武士の誇りを胸にしながらも世の荒波に翻弄された一生は、最後は家族の温もりに包まれて幕を閉じた。
“善良すぎる侍”が映す明治
稲垣金十郎は、気のよい性格で人に害を与えない「善良な侍」として記憶される一方、世渡りの拙さゆえに家計を支えられず、家族から厳しい評価を受けることもあった。
明治維新後、多くの士族が新しい時代に適応できず零落していったが、金十郎もその典型に数えられる。
しかし彼の人生は単なる失敗談ではなく、時代の大転換に直面した一人の士族の実像を映し出す鏡であった。
武士道の誠実さは、経済社会では不利に働いたが、その真面目さがあったからこそ、後世に「善良すぎる侍」として語り継がれているのである。
稲垣金十郎の生涯は、名声を残したものではなかった。しかし、その善良さゆえに苦境に陥り、時代に翻弄された姿は、明治維新を生きた士族の等身大の姿を示している。
養女・セツを通じて小泉八雲と結ばれた縁は、文化史的にも大きな意味を持ち、家庭の物語がやがて世界へとつながった。
歴史の陰にある一人の侍の歩みは、近代日本の変容を照らす小さな灯であり、私たちに時代を超えた普遍の人間像を映し出している。
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