西田千太郎(錦織友一/吉沢亮のモデル)はどんな人物だったの?

1862年。明治維新からまだ間もない時代、出雲国松江(現在の島根県松江市)の雑賀町に西田千太郎は生まれました。父は松江藩士・西田半兵衛。

妻・クラと1884年(明治17年)に結婚し、一女三男を儲ける。西田は幼少期から学問に勤しみ、藩校修道館や松江中学校で学んだ後、文部省の教員検定試験に合格。

 

心理学、倫理学、経済学、教育学の免許を取得し、兵庫県姫路中学校や香川県済々学館で教鞭を執りました。周囲の人々は西田を「利発で誠実」「頭脳明晰で記憶力に富む」と評しました。

体が丈夫ではなく青年期から結核を患っていましたが、その誠実な人柄と学識の深さは、多くの生徒や同僚から尊敬を集めたそうです。

 

1888年に故郷松江に戻り、島根県尋常中学校(現・松江北高等学校)教育の道に進んだ西田は、やがて松江中学校の教頭に就きました。

教育改革に尽力し、教授法の改善、経費節減、校風の刷新などに取り組みました。温厚で誠実な人柄で知られ、生徒や同僚からの信頼も厚かったといいます。

 

教え子の一人、和田玉一は後に「朋友知人皆これに感化せられ、氏に対し不平不満の言辞を漏せしことも予は未だ嘗て耳にせざりしなあり」と語っています。

また落合貞三郎は「実に明晰なる頭脳の持ち主であった。……先生の教室には粛然たる気が満ちていたことを想見する」と語っています。

 

静かな山陰の街で、西田は一生を終えることになります。しかし、その短い生涯の中で、彼は一人の異国の文学者と出会い、深い友情を結びました。

小泉八雲との出会い

1890年、松江に一人の外国人教師がやってきました。ギリシャ生まれ、アイルランド育ちの作家、ラフカディオ・ハーン――後の小泉八雲です。

彼は松江中学校で英語を教えることになりましたが、外国人がまだ珍しい時代。加えて視力が弱く、人付き合いも不器用なハーンは、孤独を抱えていました。

 

そんな彼に最初に手を差し伸べたのが、西田でした。西田は偏見なくハーンを受け入れ、仕事や生活の面で助けるだけでなく、松江の文化や風習を丁寧に教えました。

 

ハーンは日記にこう記しています。

「西田先生は、じつに親切な人だ。自分のできることなら何でもして、私を助けてくれる。」

 

ハーンは西田千太郎を《弟》と呼び、心から信頼していたようです。異国で孤立しがちな日々を送っていたハーンにとって、西田はかけがえのない理解者となっていったのでした。

 

妻・小泉セツにハーンは西田のことをこう語っています。

「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪いこと皆いうてくれます。本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいのおとこです」

この言葉からも、西田の誠実さと率直さ、そして人間的魅力が伝わってきます。

友情と支え合い

二人は同僚以上の関係になっていきました。西田はハーンの生活を支えるだけでなく、日本文化を理解するための橋渡し役となり、松江の民話や歴史を紹介しました。

地元の風習や言語、人物紹介など、ハーンにとって西田の助力は欠かせなかったそうです。これらの情報は後の随筆や「怪談」に大きく影響を与えています。

 

松江時代の小泉八雲(ハーン)の取材活動、資料収集、研究調査などに関して、最上の協力者でした。

生活の面でも西田は大きな支えでした。寒さが厳しい松江の冬、隙間風の入る家屋に暮らすハーンを気遣い、体調を心配する記述が西田の日記に残っています。

 

一方で、ハーンも病気と闘う西田を心配し、しばしば見舞いに訪れました。そんな二人は、数多くの手紙を交わしました。

確認されているだけで、ハーンから西田への手紙は125通以上。西田の日記には160回以上もハーンの名が登場します。

 

そこには互いの体調を気遣う言葉、執筆の進捗、そして友情が綴られていました。出会いから死の直前まで、その交流は続いたといいます。

また西田は、ハーンとセツ(小泉節子)との結婚の媒酌人も務めています。これは単なる形式的な役割ではなく、ハーンが日本社会に溶け込むための重要な一歩でもありました。

 

西田の存在がハーンを日本人として、〝小泉八雲〟として支えていたのです。ハーンは著書『東の国から』を「友・西田千太郎に捧ぐ」と献呈し、感謝の意を表しました。

さらに『知られぬ日本の面影』など、自著を含む多くの書籍を西田に送っており、明治期の地方文化史を知るうえで貴重な一次資料となっています。

 

これは、彼にとって西田がどれほど特別な存在だったかを示す、象徴的な出来事でした。

若き死と残されたもの

しかし、この友情は長く続きませんでした。西田は結核により、1897年、わずか34歳で世を去ります。西田は若くして結核を患いつつも、教育と友情に生きました。

ハーンが松江を離れたあとも二人の中が途切れることはなく、互いの近況や心情を綴った手紙が交わされていました。

 

闘病生活を送りながらも教育現場に立ち続けーー教育者としても、友人としても、まだまだこれからという時でした。

ハーンはその死を深く悲しみました。後年まで西田への敬意と感謝を語り続けました。彼の誠実さを忘れず、著作の中で西田を思い起こす言葉を残しています。

 

西田の存在がなければ、ハーンの日本文化理解はこれほど深まらなかったかもしれません。

西田の死後、彼の書簡や死の直前まで綴られた日記は『西田千太郎日記』として刊行され、また『ラフカディオ・ハーン 西田千太郎 往復書簡』が編集されました。

 

2017年には西田千太郎没後120年を記念して、小泉八雲記念館で企画展が開催され、西田の書簡や日記、ハーンから送られた書籍などが展示されました。

西田の誠実な人柄と、ハーンとの魂の交流は、今も多くの人々の心を打ち続けているのです。西田が残した日記や書簡は、今も研究者にとって貴重な史料です。

 

そこには八雲との交流だけでなく、明治期の松江の姿、当時の人々の暮らしも映し出されています。

まとめ

西田千太郎は、学識豊かで誠実、正直な教育者でした。教育者としてだけでなく、異文化の架け橋となった人物でもあります。

小泉八雲にとって、異国の地で最も頼れる友でした。彼の支えがあったからこそ、八雲は安心して日本文化を探求し、その成果を世界に発信できたのです。

 

その生涯は短くも、彼が遺した友情と誠実さが、いかに人の心を動かすかということを教えてくれています。

ハーンとの往復書簡は、時代を超えて響き合う魂の記録であり、真の信頼とはなにかを私たちに問いかけてくれているのではないでしょうか。



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