幕末の動乱期、肥前国平戸藩の武士の家に生まれた籠手田安定(こてだ やすさだ)は、天保十一年(一八四〇年)、平戸の地で産声を上げた。
前名を桑田源之丞と称した彼は、武家の子弟として成長し、後年に剣術の免許皆伝を得たことから、若年期より武芸に親しんでいたことがうかがえる。
平戸藩は外様大名ながら、海外交易で栄えた歴史を持つ。 幕末期には諸藩同様、激動の渦中にあり、武家の子弟には 文武の教育が重視されていた。
やがて安定は、藩主・松浦詮の近習として仕えるようになる。
慶応三年(一八六七年)、大政奉還が目前に迫る京都に藩命を受けて上洛し、王政復古をめぐる政局の動きを探ったことが記録に残っている。
薩長を中心とした倒幕の機運が高まる京都で、平戸藩は諸藩の動向を見極める必要があった。若き安定に課されたのは、変化する政局を見極めるという重責であった。
具体的な行動の詳細までは伝わらないが、若き安定が歴史の転換点に身を置いたことは確かである。この時期に経験した緊張と責務は、彼に胆力と誠実さを刻み込んだ。
それは後年、地方行政官として治水や教育などの難題に直面した際、揺るぎない判断力と実行力となって表れることになる。
また安定は、生涯を通じて武芸を尊び続けた。その精神は武士としての人格を支え、のちに官僚として公正を貫く土台となった。
武士としての修養が、やがて近代官僚としての基盤へとつながっていったのである。
滋賀県での治水・教育・産業振興
明治初年、籠手田安定は滋賀県の判事試補として地方行政の第一歩を踏み出し、のちに参事・権令を経て県令へと昇進した。
彼が何よりも心を砕いたのは、近江の人々を悩ませてきた自然災害への対策である。湖北地方では田川・高時川・姉川が合流する地点で水害が繰り返され、村々を荒廃させていた。
古くから設けられていた木製の伏越樋は腐朽が進み、治水機能を果たせなくなりつつあった。安定はここに煉瓦製カルバートを築く抜本的な改修を構想する。
県会では、負担の公平性をめぐって議論が紛糾したが、安定は「公共の利益」を説いて粘り強く再議を重ね、ついに事業化を実現させた。
完成した田川カルバートは明治十八年(一八八五)に竣工し、以後流域を水害から守る近代的治水施設として長く機能することになった。
安定のもう一つの重要な関心は、凶作や飢饉に備える仕組みの整備であった。彼は村ごとに米や籾を蓄える社倉を奨励し、さらに村人たちの自発的な積立を促す「私蓄備荒金制度」を推進した。
この制度は明治八年から整備が進められ、十五年までには金銭にして六十五万円余が積み立てられるほどに拡大したという(滋賀県史料による)。
近代的な社会保障の萌芽ともいえる制度であり、地域の自助と行政の連携を結びつける先駆的な試みであった。
さらに、安定は産業振興にも力を注いだ。彦根では製糸業の近代化が進められており、県としても積極的な後押しがなされた。
明治九年(一八七六)に設立された彦根製糸場の運営には勧業課が中心となり、安定も権令としてその推進を奨励したと伝えられている。
絹糸は当時の日本を支える主要輸出品であり、製糸場の誕生は近江の経済基盤を強める一大事業であった。
また、彼は近江麻糸紡織会社の設立にも関わり、地場産業を新しい時代に適応させるべく指導を行ったことが記録に残っている。
治水、備荒、産業振興、これらはいずれも民生を第一に考えた政策であった。籠手田安定の滋賀県政は、単なる官僚の職務を超え、人々の暮らしを守るために挑み続けた足跡として今も語り継がれている。
島根・新潟での挑戦と苦闘
滋賀での重責を果たした籠手田安定は、明治十八年(一八八五)、島根県令に任じられた。新天地で待っていたのは、旧藩ごとに行政や教育の水準が大きく異なる現実だった。
安定は地域格差を正すべく学校制度の整備に意欲を示したが、旧藩間の利害や伝統がぶつかり、改革は容易に進まなかった。机上の制度論だけでは動かない現場の困難を、彼は痛感することになる。
その後、明治二十四年(一八九一)、彼は新潟県知事に転じた。越後平野を抱える新潟は、米どころとして豊かである一方、治水や産業振興など課題は山積していた。
だが在任中、思わぬ逆風に直面する。剣術の達人として知られていた安定は多くの門弟を抱えていたが、その一部を県の看守に無試験で採用したことが問題となり、県会で激しく糾弾されたのである。
地元紙『新潟新聞』は「自ら法を作り自ら破る者は我が知事なり」と批判し、世論も揺れ動いた。島根での改革の苦闘、新潟での批判。
それは安定にとって、滋賀での成功とは対照的な試練の連続だった。だが彼は逃げなかった。信念を抱き、武士として培った誠実さを支えに、困難のただ中に立ち続けたのである。
そこに見えるのは、功績と挫折の両面を背負いながらも、なお挑み続ける壮年の籠手田安定の姿だった。
文武両道の精神と栄誉―武士道が支えた官僚の矜持
新潟での批判を経験した後も、籠手田安定は地方官としての使命を果たし続けた。彼を支えたのは、若き日から培ってきた武士道の精神であった。
安定は生涯を通じて武芸を尊び、剣術の修練を怠らなかったと伝えられる。後年には山岡鉄舟に入門したともいわれ、免許皆伝を得たとの逸話も残されている。
剣の道を通じて養われた規律や胆力は、行政官として難局に臨む際の精神的支柱となった。武士としての誠実さと胆力は、まさに行政手腕と不可分のものであった。
こうした資質が評価され、安定は最終的に勲一等瑞宝章を授けられ、男爵に列せられるに至った。
これは単なる官僚としての功績以上に、「近代国家の基盤を地方から支えた人物」としての顕彰であったといえる。
晩年、滋賀の人々は安定の功績を深く記憶していた。長浜市の水引神社には籠手田安定を祀る祠が建立され、今も祭礼でその徳が顕彰されている。
若き日の京都での密命、滋賀での治水と勧業、島根での取り組み、新潟での挫折、その歩みは決して順風満帆ではなかった。
だが、若き日に培った剣の修養は、行政官として難局に挑む力へと姿を変えた。その生き様は「剣に生き、剣を超えて行政を治めた男」として、同時代人の記憶に深く刻まれた。
今日における意義と顕彰 ― 武士道と公共心の継承
籠手田安定の歩みを振り返るとき、そこに浮かび上がるのは単なる一地方官の経歴ではありません。
武士として鍛えられた胆力と誠実さを基盤に、近代国家の黎明期に地方行政を担い、人々の暮らしを守り抜いた一人の人物像である。
水害対策や備荒制度、産業振興といった実績は、今日でいう「公共のためのリーダーシップ」の先駆けといえるだろう。現代社会においても、行政官や政治家に求められる資質は変わらない。
権力のためではなく、人々の暮らしを守るために判断を下し、行動する胆力と誠実さ。その意味で、安定の姿勢は決して過去のものではなく、むしろ不確実な時代にこそ参照されるべき指針である。
滋賀県長浜市の水引神社には、安定の功績を偲ぶ祠が今も残されている。治水事業の恩人として、地域の人々が「忘れたくない」と願った証である。
百年以上を経た今も祭礼でその徳が称えられている事実は、安定の歩みが人々の心に深く刻まれていることを物語る。
幕末の侍として出発し、明治国家の官僚として生涯を全うした籠手田安定。その軌跡は、過去から未来へとつながる「文武両道の精神」の象徴である。
彼の人生を知ることは、公共心と誠実さを胸に社会と向き合うための、静かで力強い示唆となるだろう。










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