小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)はどんな人物だったの?

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を』日本最古の和歌に詠まれたこの言葉をご存知ですか?

幾重にも重なる雲が立ち上る様子を表し、後に〝小泉八雲〟という名前の由来にもなりました。

 

怪談作家として知られる彼の生涯は、実はひとりの女性を愛し、その愛に導かれて日本という国に深く根を下ろした、壮大なラブストーリーでもあったのです。

彷徨の旅路

1850年、ギリシャのレフカダ島で小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは生まれました。彼の名「ラフカディオ」は、この生地に由来します。

アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれたハーンでしたが、幼くして両親と離別し、大富豪だった大叔母のもとに引き取られました。

 

厳格なカトリック教の教えを強いられたことによりキリスト教に興味をなくし、ケルト神話や土着信仰に興味を持つようになったといいます。

ハーン16歳のとき、友人らと遊んでいるときにロープが左目にあたり失明。17歳で大叔母が破産し、経済的に困窮します。

 

孤独と目の怪我は、ハーンに特別な感性を与えました。彼は目に見える現実よりも、心で感じる幻想や情景を大切にするようになったのです。

1869年、19歳で移民船に乗りアメリカへ。文筆の才能を持っていたハーンは新聞社に就職し、ジャーナリストになります。アメリカでの生活は、彼に自由と多くの出会いをもたらしました。

 

《古事記》の英訳版を読み、1884年にニューオリンズで開催された万国博覧会で農商務省官僚・服部一三から日本文化を紹介され、西洋の近代文明がまだ及んでいない神秘的な日本へと強く惹かれていきました。

 

日本の芸術や文化、特に古くから伝わる幽霊や妖怪の物語に強く魅了されたハーンは、1890年、ついに日本の地を訪れたのでした。

松江・魂の安息 

来日当初は横浜や神戸といった開港地を訪れますが、彼の求める古き日本の心はそこになく、探し、たどり着いた先が島根県の松江でした。

ハーンは松江で、英語教師としての職を得ます。当時の松江は江戸時代の面影を色濃く残す、静かな城下町でした。そしてこの地で、生涯の運命を決定づける、ひとりの女性と出逢うのです。

 

その人の名は、小泉セツ。旧松江藩士の娘であるセツは派手な装いや横柄な振る舞いをすることもなく、純粋で素朴、そして誠実な心を持つ女性でした。

世界を放浪し帰るところもない。そんな孤独の淵にいたハーンは、小泉セツの無垢な魂に、一瞬にして心を奪われます。

 

それまで放浪を繰り返してきた彼の心を、セツの存在が深く癒やし、初めて「家」と感じる場所を与えてくれたのでした。

ハーンは生まれつき極度の弱視に加え、左目の視力を失っていました。そのため。視覚的な情報よりも、人々の声や心で感じる情景を大切にする人でした。

 

そんなハーンに、セツは日本で古くから語り継がれてきた物語を夜な夜な語り聞かせました。

セツの穏やかで抑揚ある語り口から生まれるのは、「雪女」や「耳なし芳一」といった、幽霊や妖怪の物語ーー怪談でした。

 

ハーンはそれらの物語に、恐怖だけではなく、自然への畏怖、死者への鎮魂、そして人間の情愛といった日本人の根源が詰まっていることを見出しました。

「セツは私の生きた辞書だ。そして怪談の宝庫だ!」

 

ハーンの文学的才能を育み、世界に知られる傑作《怪談》を生み出す共同創造者の小泉セツは、彼のインスピレーションの源泉となる「生きた図書館」なのでした。

「小泉八雲」誕生

 ハーンはセツと結婚し、日本の家族の一員になることを決意します。この結婚は、愛の結びつきだけではなくハーンが日本という国に深く根を下ろすために、人生の最も重要な決断でした。

外国人ではなく、日本人として生きていきたい。そう強く願ったハーンは、1896年(明治29年)日本に帰化します。

 

新しい日本の名前ーー妻の姓「小泉」をもらうことに迷いはありませんでしたが、名をどうするか。自らの名前を決めるにあたり、ハーンは深く愛した出雲地方の神話にその答えを見つけます。

出雲地方は古くから神話の国であり、古事記に記された日本最古の和歌にも『八雲立つ』という言葉が読み込まれています。多くの雲が湧き出るという意味で、出雲にかかる枕詞です。

 

八雲とは、幾重にも重なる雲が立ち昇る様子を表すとともに、幾重にも重なる垣根ーー八重垣を象徴しています。

愛する人との生活が、外界の喧騒から守られる心安らかな「八重垣」を築こう、という願いも込められていたのです。

 

こうしてラフカディオ・ハーンは、日本の神話と妻への愛情に満ちた名前「小泉八雲」となったのです。

怪談

 小泉八雲は帰化後も、その旺盛な探究心を失わず、東京帝国大学などで教鞭を執りながら執筆活動を続けました。

ふたりの暮らしの中で有名なのが「怪談会」です。学生や友人を家に招き、部屋の明かりを落としてーー静寂が広がる中で、八雲は語り始めます。

 

彼の声が響き、聞き手たちは息を呑む。静かな恐怖がそこにある。語られるのは、セツが幼い頃から知っていた物語でした。その口承が、八雲の声によって文学へと姿を変えていきました。

八雲はセツが語る物語を、自信の豊かな感性で再構築し、次々と文学作品として世に送り出します。

 

代表作である《怪談(Kwaidan)》《骨董(Kotto)》は、セツから聞いた日本の昔話や伝説、そして人々の生活の中に息づく怪異譚が土台となっています。

八雲は西洋人でありながら、日本人が忘れかけていた幽玄の世界を見事に言葉にしました。

 

雪女の冷ややかな微笑、方位置が耳を失う恐怖。その描写は西洋にはない静けさと余韻をたたえています。

その根源には、セツの語りがありました。セツは文化の〝伝承者〟であり、八雲はその声を世界へ運んだ〝語り部〟なのです。

愛を遺し、今も生きる

小泉八雲の怪談文学は、単なる恐怖物語にとどまりません。彼の作品には、日本人の自然観や万物に魂が宿ると信じるアニミズム、そして死者との絆を大切にする心が描かれています。

それは八雲が心から日本を愛し、妻・セツを愛したからこそ描くことができた世界なのではないでしょうか。

 

彼の功績は怪談作家としてのものだけでなく、ひとりの女性への愛を通じて、異文化理解の橋渡しをしたことなのです。

西洋の視点から日本の精神性を客観的に、そして詩情豊かに紹介し、多くの人々に日本の美を深く刻みつけました。

 

海外でも八雲は日本文化の窓口として評価されました。異国人でありながら文化を深く理解し、敬意を持って紹介した姿は、文化交流の理想の形と言えるでしょう。

《古事記》には、荒ぶる神・スサノオノミコトが登場します。ヤマタノオロチを退治して救い出したクシナダヒメを妻に迎えたあと、出雲の須賀の地に新居を建てました。

 

そのとき、立ち昇る雲を見て、日本最古の和歌を詠みました。

 

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を』

 

小泉八雲の生涯は、まさに「八重垣」を探し求める旅だったのではないでしょうか。その旅の終わりに、愛する妻とともに安らぎを見つけ、幾重にも重なる文化の壁を超えた傑作を遺しました。

八雲の人生そのものが、永遠に守られるべき〝愛の八重垣〟の物語だったのです。松江には今も小泉八雲記念館があり、彼の足跡をたどる人が絶えません。

 

八雲が日本という国と文化に捧げた、情熱的な愛の物語は形を変え静かに続いていくことでしょう。



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