NHK朝ドラ「ブギウギ」で村山興業の東京支社長の坂口(黒田有)のモデルになっている林弘高(はやしひろたか)さんがどんな人だったのかみていきます。
また、朝ドラ「ブギウギ」でどんな役どころなのか。「ブギウギ」の坂口と林弘高さんがどう違っているのかをみていきたいと思います。
林弘高の来歴
林弘高(はやしひろたか)さんは、1907年(明治40年)2月1日、兵庫県明石市に生まれました。出生名は林勝(はやしまさる)でした。
1925年(大正14年)には関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業。その後上京して、中央大学法学部を卒業しました。
卒業後は、社会民衆党の機関紙の編集などにも携わり、1928年(昭和3年)に吉本の東京の営業責任者となります。
さらに吉本興業合名会社東京支社長になりますが、この頃、本名を林弘高に変更しています。
1946年(昭和21年)には、大阪の吉本興業から独立した吉本興業株式会社を東京に設立し、社長に就任。
吉本興業株式会社の社長就任後は、様々な映画館や劇場を経営するとともに大泉映画の社長にもなり、映画製作も手掛けています。大泉映画は現在の東映につながる会社でした。
1963年(昭和38年)には大阪の吉本興業から招待されて、社長になります。各方面での活躍ぶりはこれから紹介しましょう。
晩年は脳梗塞を患い、半身不随になりましたが、精力的な活動を続けました。1971年(昭和46年)6月27日、咽頭ガンが原因で64歳で亡くなりました。
林弘高氏の活躍ぶり
林弘高さんは1934年(昭和9年)にアメリカで人気のレビュー団「マーカス・ショー」を招き、日本劇場で興行を行い、成功を収めています。
興行の際には中心的な役割を演じ、ショーマネージャとしても活躍、当局との交渉も一手に引き受け、若き名プロデューサーとして名を知られるようになりました。
1936年(昭和11年)には、東宝、P.C.L映画製作所との3社による提携を行い、映画製作。芸人や俳優たちを積極的に起用し、出演させています。
戦後の活躍ぶりにも目を見張るものがありました。1948年(昭和23年)には設立した吉本映画株式会社で「肉体の門」という作品を製作し、大きな話題を提供しました。
歌手、江利チエミのプロデュースとプロレスラー、力道山の興行をサポートしたことでも知られる林弘高さん。戦後のエンターテイメント文化、スポーツの発展に精力的に関わりました。
1964年(昭和39年)には、現在のなんばグランド花月の場所にボウリング場も開設。各方面での活躍はとどまることを知りませんでした。
こんな活動もしています。1940年(昭和15年)の万国博覧会開催に向けて、1938年(昭和13年)には欧米を視察し、1939年(昭和14年)にニューヨーク万博の関係者とも会合をしています。
積極的に準備活動などもしていましたが、残念ながら1940年万万国博覧会は戦争の影響で実現しませんでした。
もちろん、活発な活動の裏では苦労したこともありました。1939年(昭和14年)のことですが、新興キネマや松竹が演芸部を設立し、吉本興業の主要芸人の引き抜きを始めたのです。
吉本興行側もただ引き抜きを座視しているわけにはいかず、義理人情に訴えたり、給料を上げたりしながら芸人の残留を求めます。
それでも芸人の流出が続き、会社間同士の抗争と呼ばれる事態になりました。林弘高さんは、この局面の収集にあたり、新興シネマなどとの折衝にも取り組んでいます。
林弘高さんの活躍ぶりについては、『吉本興業をキラキラにした男——林弘高 物語』という単行本の中で詳しく語られています。
同著の著者は作家の小谷洋介さんで、稀代のプロデューサー「林弘高」の人生をたどり、人となりなどを紹介しています。
林弘高への思い
林弘高さんは、1907年生まれで、1971年に死亡していますが、活躍している時代に実際に触れた芸人などの話がいくつもあります。
まず『吉本興業をキラキラにした男——林弘高 物語』のところで紹介した作家の小谷洋介さんは、吉本興業の現代の多角化について、「林弘高さんのアイデアに通じるものがある」と評しています。
「林弘高さんはチャレンジ精神が旺盛で、現在の吉本興業に一番近い人物だったのでは」とのことです。
上方落語ではおなじみの桂文珍さんは林弘高さんについてこう評しています。
「グローバルな視点を持ち、海外の良いものを積極的に取り入れていた。世界の流れや時代の潮流に詳しい方で、状況を熟知していた」
上方漫才の大御所、西川きよしさんはこのように述べています。
「芸人の誕生日をホールで開き、芸人を大事にしてくれていた。」
いろいろな声がありますが、林弘高さんという人物の優れた面を語るものが多いです。
ブギウギの坂口と林弘高
NHK朝ドラ(朝の連続テレビ小説)「ブギウギ」の坂口は村山興業の東京支社長です。そのため、東京支社長をしていたころの林弘高さんを描いていることがわかります。
実際のエピソードとしては、吉本頴右(村山愛助/水上恒司のモデル)さんが東京大空襲で家を失ったことで、林弘高さんが住む場所を提供しています。
当初、吉本興業の御曹司であった吉本頴右さんと笠置シズ子(福来スズ子/趣里のモデル)さんの交際をなんとか別れさせようとしていました。
しかし、東京大空襲の後は吉本頴右さんと笠置シズ子さんの関係を応援するような行動をとっています。それは、NHK朝ドラ「ブギウギ」の中でも描かれています。
吉本せい(村山トミ/小雪のモデル)さんと吉本頴右さんの親子の間に立ち、うまくお互いの関係を保っていきます。
そのあたりは、実際に描かれていますので朝ドラ「ブギウギ」でどのような形になっているのか。笠置シズ子さんとの実際の関係がわかると思います。
朝ドラ「ブギウギ」は、ほぼモデル通りに描いていますので林弘高さん、笠置シズ子さん、吉本頴右さん実際のエピソードだと思ってみると、きっと楽しめるでしょう。
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