富田ツネ(花田ツル/池谷のぶえのモデル)はどんな人物だったの?

朝ドラ「ばけばけ」に登場する花田ツル(池谷のぶえ)。そのモデルとされるのが、松江で富田旅館を営んでいた若女将・富田ツネです。

1890年、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が松江に赴任した際、最初に身を寄せた宿で彼を迎え入れたのが彼女でした。

 

細やかな観察眼で八雲の日常を見守り、後年の口述筆記にその姿を語り残したツネは、単なる宿の女将にとどまらず「異文化をつなぐ語り部」として記憶されています。

富田ツネとは誰か

富田ツネ(1859年生まれ)は、明治時代の松江で「富田旅館」を切り盛りしていた若女将です。1890(明治23)年9月、小泉八雲が松江中学校の英語教師として着任した当時、ツネは31歳でした。

小泉八雲記念館の公式SNSでも「この時のツネは若女将として旅館を支えていた」と紹介されています。

 

ツネの夫である富田太平は、松江の町人社会で知られた人物で、旅館経営に加えて地域のつながりを大切にする性格だったと伝わります。

夫妻が営む富田旅館は宍道湖にほど近く、松江城下町の中心に位置する十数室規模の宿でした。女中や下働きも抱え、商人や役人、文化人を迎え入れる場として賑わっていたといいます。

 

格式ばった高級宿というよりも、家庭的で落ち着いた雰囲気が特徴でした。そんなツネだからこそ、宿泊客の日常を細やかに観察し、気配りを欠かさなかった姿勢が印象に残っています。

後年、彼女が語り残した証言は、八雲がどのような生活を送り、何を好み、どんな習慣を持っていたのかを知る貴重な手がかりとなりました。

 

つまり、富田ツネは「宿屋の女将」であると同時に、「八雲を最も近くで観察した語り部」でもあったのです。

小泉八雲との出会い

1890(明治23)年9月、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は英語教師として松江に赴任しました。着任直後に身を寄せたのが富田旅館であり、ここでの滞在が松江生活の第一歩となりました。

滞在期間については三か月程度とする説もあれば、10月下旬あるいは11月下旬までとする説もあり、研究者の間で見解が分かれています。

 

当時の松江は城下町としての面影を色濃く残し、外国人はまだ珍しい存在でした。八雲が教師として迎えられたこと自体が地域にとって大きな出来事であり、旅館にとっても特別な客をもてなす緊張感があったと考えられます。

若女将であるツネは、言葉や習慣の違いに戸惑いつつも、礼を尽くして接し、その生活ぶりを注意深く見守りました。

 

八雲はこの宿で、日本家屋の生活様式に慣れ、日常の食事や習慣を経験しました。朝は牛乳と卵をとり、昼夜には巻き寿司や刺身、煮物や焼き物といった料理を味わいました。

浴衣を好んで身につけた一方で、糸こんにゃくを嫌うなど、細かな嗜好や癖もありました。こうした点はすべてツネが記憶に留め、後年の口述筆記に詳しく語られることになります。

 

ツネにとって八雲は「宿泊客」であると同時に、未知の文化を映す鏡のような存在でした。だからこそ彼の言動や習慣を丁寧に記憶しようとしたのです。

ツネの視線は、やがて八雲像を後世に伝える「窓口」となり、異文化をつなぐ役割を果たすことになりました。

『冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生』が残したもの

富田ツネと夫・太平が晩年に語り残した回想をまとめた「冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生」は、昭和11年(1936年)に作成され、小泉八雲記念館に収蔵されています。

滞在から半世紀後の証言ではあるものの、その細やかな描写は、当時の生活を生き生きと伝える貴重な記録となっています。

 

この記録では、八雲の日常が細かく描かれています。外出から戻ると必ず手洗いやうがいを行い、健康管理に注意を払っていたこと。

旅館を訪れる地元の客や同僚に礼儀正しく応対し、静かに耳を傾けていたこと。さらに、静かな部屋にこもり原稿用紙に長時間筆を走らせ、時折宍道湖を眺めて考え込む姿も記されています。

 

旅館という日常空間の中で、八雲の文学の芽が育まれていたことを示すエピソードです。また、食事や衣服についても具体的に語られています。

朝は牛乳と卵を好み、巻き寿司や刺身、乾物をよく食べた一方で、糸こんにゃくを嫌ったこと。浴衣で過ごすのを好み、日本の住まいに馴染んでいったこと。

 

こうした細部はツネの観察眼の鋭さを物語っており、八雲を身近に支えた者だけが知り得る暮らしぶりといえるでしょう。

このように「冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生」は、八雲の生活を多面的に伝える資料です。

 

食事や衣服、衛生習慣、来客への応対、執筆の姿勢までが記録されており、八雲像を補う一次資料として高く評価されています。

証言の信頼性と伝承の色合い

 「冨田旅館ニ於ケル小泉八雲先生」は、八雲の松江滞在を伝える貴重な証言ですが、その性格には注意が必要です。

記録がまとめられたのは出来事から半世紀後の昭和11年(1936年)であり、晩年の思い出をもとにしているため、記憶の変容や世相の影響は否定できません。

 

具体例を挙げれば、「帰宅すると必ず手洗いやうがいをした」という描写は、後世の衛生意識が高まった時代に強調された可能性があります。

また「糸こんにゃくを嫌った」という逸話は象徴的に語られすぎているかもしれません。こうした点は、記憶が「事実そのもの」というより「後年の物語」として形作られていることを示しています。

 

一方で、八雲自身の書簡や著作には松江での食事や生活ぶりはほとんど記録されていません。

その空白を埋めるように、ツネの証言は「食卓での好み」「来客への応対」「執筆の姿勢」など日常を克明に伝え、一次資料にはない補完的価値を持っています。

 

郷土史家や八雲研究者の間でも、史実性の検証を前提としつつ、地域の人々が八雲をどう記憶したかを理解する上で不可欠な資料と評価されています。

つまりこの史料は、八雲研究にとっての補助線であると同時に、富田ツネという人物の「観察力と語り部としての存在感」を今に伝える証でもあるのです。

地域に受け継がれるツネの記憶

富田ツネの記憶は、彼女自身の口述筆記を超えて、地域社会の中で今も息づいています。八雲が滞在した富田旅館はその後、大橋館へと受け継がれました。

松江を代表する宿のひとつとして歴史を重ねてきました。大橋館の公式サイトにも「八雲が滞在した旅館の流れをくむ宿」と記され、ツネと八雲をめぐる逸話は観光資源の一部となっています。

 

また小泉八雲記念館でも、この記録が展示され、来館者に日常生活の一端を伝える重要な資料として扱われています。

現代においては、朝ドラ「ばけばけ」に登場する花田ツルのモデルとしても注目されました。

 

ドラマでは脚色もあるものの、八雲を世話した若女将という役割や、人を観察する目配りの細かさといった要素は受け継がれています。

これは単なる歴史の再現ではなく、ツネという人物の新しい解釈が物語を通じて広がった例といえるでしょう。

 

総じて言えば、富田ツネは「宿を切り盛りした働き者の女将」であり、「異文化に戸惑いながらも受け入れた観察者」であり、そして「後世に八雲像を伝えた語り部」でした。

その証言は松江の地域史の一部として残り、今も人々の想像力を刺激し続けています。富田ツネという女性の存在は、歴史の細部を見逃さずに残すことの大切さを教えてくれます。

 

彼女が記憶し、語り伝えた一つひとつの場面は、八雲を知る手がかりであると同時に、私たち自身が「どのように他者を見つめ、物語を残していくのか」を考えるきっかけともなるのです。



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