牧野寿衛(槙野寿恵子/浜辺美波の実在モデル)はどんな人物だったの?

今回は、NHK朝ドラ「らんまん」の槙野寿恵子(浜辺美波)の実在モデルである牧野寿衛(まきのすえ)さんはどんな人物だったのか詳しく解説していきます

牧野寿衛さんは、植物学の父で1500以上の新種の植物を見つけた牧野富太郎(まきのとみたろう)さんの妻です。

 

ここからは、牧野富太郎さんをどのように支えたのか。どんな奥さんだったのか詳しく見ていきましょう。

寿衛(すえ)と富太郎の出会い

牧野富太郎さんと牧野寿衛(すえ)さんの出会いは、1888年(明治21)の頃です。富太郎は、大学へ通う途中の菓子屋によく訪れていました。

お酒が飲めなかった富太郎は、甘い物が好きでその菓子屋に寄ってお菓子を買っていました。そこに店番でいたのが、寿衛(すえ)でした。

 

富太郎は、お菓子が好きというのもありましたが、それ以上に寿衛(すえ)に会うために和菓子屋に寄ってお菓子を買っていたのです。

寿衛(すえ)に、おっとりしていましたが品があり、凛とした姿に惹かれたのでした。思い込んだらまっすぐに進む富太郎ですが、恋愛はそうはいきませんでした。

 

この頃、富太郎は「日本植物志図編」の第1巻を作ろうとしていました。費用を浮かせるために、印刷を自分でやるため、印刷所で勉強させてもらっていました。

その石版印刷所の主人・太田義二(おおたよしじ)に、富太郎は寿衛(すえ)のことを相談したのです。すると、太田義二さんが、寿衛(すえ)の両親のことを知っていたのです。

 

旧姓・小沢寿衛(すえ)は、菓子屋の次女でした。父親は、幕末に彦根藩につとめた武士で、その後は陸軍で働いていました。

富太郎と出会った頃には、すでに亡くなっていました。菓子屋は、寿衛(すえ)の母親が始めたものでした。

 

寿衛(すえ)自身も、良く店に来てくれる富太郎のことが気になっていました。気前よくお菓子を買っていく富太郎に好感を持っていたのです。

そのため、話はとんとん拍子に進み、すぐに根岸の一軒家を借りて同棲をスタートさせました。

結婚後のエピソード

ここでは、牧野富太郎さんと牧野寿衛(すえ)さんのたくさんのエピソードをまとめていきたいと思います。

ロシアへ共に行く決意

明治23年(1890)に富太郎は、東京大学の植物学教室の出入りを禁止されることがありました。富太郎の活躍したことで、矢田部教授に通告されました。

そこで、富太郎は尊敬する研究者がロシアにいたのでロシアに行こうとします。その決意を寿衛(すえ)に伝えました。

 

すると、寿衛(すえ)は驚きましたが躊躇することなく一緒についていくことを決めます。結果的に、ロシアに研究者が亡くなっていたので計画が中止されます。

しかし、ロシア行きに、子どもを連れて迷うことなく行く決断をするところが、寿衛(すえ)の肝っ玉が座っているところを表わしています。

長女・園子の死去

牧野富太郎さんと牧野寿衛(すえ)さんの間には、たくさんのお子さんがいらっしゃいます。13人出産して、7人が亡くなり6人が無事成長しています。

しかし、明治26年(1893)の長女・園子の死去は2人にとっても特別なものでした。園子は、4歳まで成長していたし、一番上の子供だったからです。

 

しかも、長女・園子が亡くなった時に富太郎はいませんでした。富太郎は、実家の家業だった岸屋を畳むために高知に帰っていたからです。

しかも、寿衛(すえ)さんは生まれたばかりの次女・香代(かよ)の面倒も見ていたからです。亡くなった園子は、昨年から風邪をこじらせていました。

 

そのため、寿衛(すえ)さんは注意していたのですが病状が悪化して、亡くなってしまったのです。この時に、夫・富太郎がいなかったことは、寂しかったことでしょう。

富太郎は、あちこち自由に行き来するので寿衛(すえ)さんが苦労していたことがわかるエピソードの1つです。

研究への理解

牧野家は、とにかく貧乏でした。富太郎が実家の岸屋から仕送りしてもらっていた時はまだ良かったのですが、岸屋がつぶれてからは借金の連続です。

富太郎は、大学の講師のお金をもらうのですが、そのお金の何倍も本を出版するのにお金を使っていたからです。

 

そのため、家には借金取りが次々とやってきます。そんな時も、寿衛(すえ)は動じることなく対処します。

借金取りに対して、研究費用のために貧乏であることを説明してお引き取りをお願いしていました。これを続けると、家財道具の差し押さえがやってきます。

 

そんな時でも、富太郎は机に向かって植物の標本を作っています。家財道具を持っていかれると、今度は大家さんがやってきて家賃の催促がやってきます。

それが支払えないので、引越すことを繰り返していました。それでも、寿衛(すえ)は子どもたちに教えました。

 

「これは、学問のための貧乏だから恥ずかしいことではありません。お父さんの研究はとっても立派なことだから胸を張りなさい。」

寿衛(すえ)は、富太郎の研究に足して相当の理解をしていた人なのです。

富太郎は道楽息子

借金ばかりで苦しい生活をしていたにもかかわらず、富太郎が研究に打ち込むことができていたのは、寿衛(すえ)のおかげでした。

借金は、富太郎に手を差し伸べてくれる人がいてチャラになっても、またすぐに借金をしてどうにもならなくなってしまうの繰り返し。

 

ある日の夕方、いつものように借金取りが来ていた時に、寿衛(すえ)は子どもに赤旗を立てるようにお願いしておきます。

するとその目印を見て、富太郎には家には帰らずどこか寄り道をして、旗がなくなるのを確認してから帰るようにしていました。

 

借金を返すことができないにもかかわらず、富太郎は学生たちとご飯に行っておごったりします。それを寿衛(すえ)に言われて謝っても、すぐ植物のことで目を輝かせます。

まるで、遠足が待ちきれない子どものような顔をするので、寿衛(すえ)は怒ることができずに、「わがままな道楽息子が一人いる」と話しています。

 

寿衛(すえ)は、富太郎と世間の折り合いをつけるために影になり、ひなたになり支え続けていたのです。

自分がなんとかするしかない

寿衛(すえ)は、暮らしを少しでも良くするためには自分が仕事をするしかないと考えはじめました。そこで、小料理屋をはじめます。

実家の母のおかげで、歌や踊りには覚えがあったのでうまくやれる自信がありました。場所は、一家の住んでいた渋谷の荒木山です。

 

この頃、ちょうどこのあたりはたくさん料理屋ができてにぎやかになっていました。そして、なけなしのお金で一軒家を借りました。

富太郎に、その話をします。富太郎は、自分の生活のせいで暮らしが一向によくならないので反対はできるはずもありません。

 

調理道具などは、店をたたむところから譲ってもらう計画して、用意周到に準備をしていました。そして、寿衛(すえ)は家をでて店をスタートしました。

当時の小料理屋は、水商売にあたるので大学で働く富太郎にとっては良くないと考えたからです。

 

店は、小さいものでしたが寿衛(すえ)のおもてなしが評判になり繁盛するようになりました。そのおかげで、貧乏な暮らしに光が差し始めていました。

しかし、そんな時に関東大震災が起きてしまいます。東京の町中が焼け野原になってしまいます。それを見た寿衛(すえ)は思います。

 

もし火事で、だんなさまの標本が焼けたらどうしよう。だんなさまの命と同じ標本を失うことができないと考えるようになります。

ちょうどその頃、大学に寿衛(すえ)の店のことがバレてしまいます。学長から富太郎が呼ばれて、正直に答えました。

家を購入

関東大震災の後、寿衛(すえ)の店は徐々に客足が遠のいているのを感じていました。支払いもツケ払いが増えていき、景気の後退を感じます。

そこで寿衛(すえ)は、店を閉めて家を売ることを決意します。それも事実ではありますが、富太郎の名誉を傷つけてはいけないとの思いからでした。

 

すぐに店は売れました。そのお金で、今度は武蔵野の広い土地を購入しました。標本を焼かないためには、広い土地が必要。

だから、田舎に越してでも広い土地がどうしても必要だったのです。そこに、小さな家を建てました。そのことで、家賃に追われて引越しすることもなくなりました。

 

富太郎は、寿衛(すえ)の想いにただただ感謝するしかありませんでした。牧野家は、寿衛(すえ)の収入がなくなったから再び貧しくはなりました。

しかし、ようやく平和で落ち着いた暮らしがやってきたのです。新しい家で正月を迎えた時、昭和2年(1927)という新しい時代に突入していました。

寿衛(すえ)の死

新しい家を建てた後に、寿衛(すえ)は体調を崩しがちになります。貧乏で、6人の子供を育て体は疲れ切っていたのです。

寿衛(すえ)は、病院にかかることが増えてきました。しかし、富太郎は仕事が忙しく全国を飛び回る生活をしていました。

 

富太郎は、新種のササを見つけて家にもって帰りました。寿衛(すえ)の体調はすぐれず昭和3年(1928)1月に病院に入院しました。

それから、1ヶ月足らずの間に、寿衛(すえ)は亡くなりました。寿衛(すえ)は40年間、富太郎と一緒にすごしましたが、文句ひとつ言いませんでした。

 

富太郎の研究は、寿衛(すえ)があってこそでした。そのため、新種のササに寿衛(すえ)の名前をつけました。

和名 スエコザサ
学名 ササ スエコアナ マキノ

牧野寿衛(すえ)まとめ

ここまで、牧野寿衛(すえ)さんについてお伝えしてきました。牧野寿衛(すえ)さん自身が、表だって何かをするわけではありません。

ただ、牧野富太郎さんの植物に対する熱意と才能を信じて、ずっと支え続けてきた人物であることがわかると思います。

 

普通の人間であれば、借金で取り立てがくる。差し押さえされる。引越しをしなければならない。そんな状況で、別れると思います。

いくら言っても直らないからです。しかし、牧野寿衛(すえ)さんはそんな時でも借金取りを上手にいなし、暮らしをよくするために店をはじめました。

 

牧野富太郎さんの活躍というのは、牧野寿衛(すえ)さんが影でしたサポートと理解があったからこそのことだと思います。

言葉で言うのは簡単ですが、良妻賢母っていうのは牧野寿衛(すえ)さんの人のことを言うのだと感じました。子どもがたくさんいるので、子どもがどう感じてたのか。

 

そういったところが少し気になりました。朝ドラ「らんまん」では、なかなか描けないようなエピソードが満載ですが、近い形で描いて欲しいなって思います。

牧野寿衛(すえ)さんの役をするのは、浜辺美波さんです。ヒロインがどんな形になるのかワクワクします。



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