大関釛(一ノ瀬安/早坂美海のモデル)はどんな人物なの?

NHK朝ドラ「風薫る」の中で、主人公・一ノ瀬りん(見上愛)の妹・一ノ瀬安(早坂美海)にはモデルがいます。

一ノ瀬安のモデルになっているのが大関釛(おおぜきこく)です。実際の大関釛はどんな人でしょうか。

大関釛とは?

大関釛は1866(慶応2)年、栃木・下野国の黒羽藩に生まれました。黒羽藩の国家老、大関弾右衛門増虎とその妻・哲の三女にして、五人兄妹の末っ子です。

黒羽藩は、那須野の大地に根を張る小藩ながら、大関氏は代々200石の格式を誇る家老の家柄でした。

 

釛の父・弾右衛門は、藩主大関増裕の縁戚として藩内で硫黄製造の責任者を任される、実直で誠実な武士でした。

釛が生まれた頃の大関家は、幕末の嵐がすぐそこまで迫っているとはいえ、まだ武士としての体面を保ち、子供たちが笑い声を上げられる家だったはずです。

 

釛には、上に姉が二人、兄が二人いました。長女・八千代、次女・和(後に「明治のナイチンゲール」と呼ばれる大関ちか)、長男・復彦、次男・衛。末娘として、釛は家中から可愛がられて育ちました。

姉の和が情熱家で行動力に富んだ性格だったのとは対照的に、釛は「春の陽だまりのような」と形容されるほどの物静かで穏やかな性格だったと伝わっています。

 

同じ両親のもとに生まれながら、これほど異なる気質の姉妹がいたというのは、後の二人の歩みを見ていると、むしろ必然だったように思えてきます。

釛が10歳になった1876年(明治9年)、父・弾右衛門が世を去ります。同じ年、姉の和は19歳で黒羽藩次席家老の家の次男・渡辺福之進豊綱のもとへ嫁ぎました。嫁入りした時、妹の釛はまだ10歳。

 

姉を送り出した後の家は、釛にとってどこか寂しく感じられたかもしれません。父を亡くし、姉を失い、時代もまた激変しています。

維新後の武士の家は、誇りとともに禄高も失い、大関家もその例外ではありませんでした。幕末から明治へ。

 

武士の時代が終わり、西洋文明が押し寄せ、人々の価値観そのものが大きく揺れ動きました。

特に女性たちは、「家を守る存在」であることを求められながらも、新しい時代の波の中で生き方を変えざるを得ませんでした。

嵐に巻き込まれた上京、そして烏山への嫁入り

1881(明治14)年。釛は15歳になっていました。その年、黒羽に衝撃が走ります。嫁いで6年になる姉の和が、夫との離縁を経て実家へ戻ってきたのです。

和の夫・渡辺福之進は、結婚の前から妾との関係があり、婚家に入った和に対してその縁を清算しませんでした。

 

和は二人の幼子——長男・六郎と長女・心——を抱え、やむなく離縁へと踏み切ります。和の帰還は、そのまま大関家の上京へとつながっていきます。

母・哲、姉・和、甥の六郎、姪の心、そして釛。一家は黒羽の地を後にして、東京へと移り住むことになりました。

 

武士の家に育った少女は、文明開化の只中へ身を置くことになりました。都市の空気は、那須野や黒羽の静けさとはまるで異なるものだったでしょう。

ところが釛の人生は、またも大きく動きます。上京して間もない1884(明治17)年、彼女は栃木県烏山町(現・那須烏山市)に住む川原健次郎という男性と結婚することになります。

 

上京からわずか3年。釛は今度は東京を後にして、栃木の烏山へと嫁いでいきました。烏山での暮らしは、姉の和の激動の日々とは全く異なる道でした。

釛は川原家に入り、やがてふたりの男の子をもうけます。長男・諭(さとし)と次男・博巳(ひろみ)。

 

姉の和が東京で看護婦の地位確立に身を削り、感染症対策の最前線に立ち、廃娼運動に飛び込み、雑誌に論陣を張り、あちこちを駆け回っている間、釛は烏山で静かに家族の日常を守り続けます。

そしてもうひとつの試練が、釛を待ち受けていました。1907(明治40)年。兄の復彦が結核で亡くなります。

 

姉・和はすぐに釛に依頼を送りました。「復彦さんの遺児・増博(ますひろ)を、烏山で預かってほしい」と。

釛はその申し出を受け入れます。自分の二人の息子を育てながら、亡き兄の子供をも引き取ったのです。

 

それを当然のように受け止めたところに、釛という人物の静かな強さが現れているように思えます。

母として

母として、そして姉を支える者として烏山での釛の生活に、再び大きな変化が訪れたのは1909(明治42)年のことでした。

夫・川原健次郎が亡くなったのです。夫を失いながらも、釛は立ち止まることはできませんでした。

 

息子の博巳を東京専門学校(現・早稲田大学)の英文科に入学させるという目標を掲げ、1912(明治45)年ごろ、博巳を連れて東京へと再び上京します。

そして釛が身を寄せたのは、かつて別れた姉・和の家でした。釛と和の姉妹は、それぞれ全く違う半生を歩んできました。

 

和は東京で名声を確立し、患者の医療費を肩代わりして常に借金を抱えますが、持ち前の活動力で突進し続けました。

釛は那須烏山の地で静かに子供たちを育て、夫を看取り、甥を引き取り、また一から東京に乗り込みました。

 

ふたりがひとつ屋根の下で暮らし始めた時、釛は姉の家の家事を一手に担うようになりました。

当時の和の家は、大関看護婦会の拠点でもあり、常に看護婦や患者関係者や各種運動の人々が出入りする、嵐の中心のような場所でした。

 

その嵐の目の中で、釛はただ静かに台所に立ち、食事を整え、家を整え、姉を支えたのです。さらに運命は、もうひとつの縁を用意していました。

1921(大正10)年。釛の息子・博巳が、鹿内貞(しかうちてい)という女性と結婚しました。

 

貞は、姉の和が率いる東京看護婦学校を卒業したばかりの、温和でしっかりした性格の看護婦でした。

実は和が貞に目をつけ、「ぜひ甥の嫁になってほしい」と泣いて頼み込んだのが縁だったといいます。
突然の申し出に気が動転した貞は、それでも和に押し切られて博巳の妻となりました。

 

そこには、和らしい勢いと、釛らしい静かな受け止め方の両方があったのかもしれません。やがて貞は、和の後継者として大関看護婦会の運営を1年間担うことにもなります。

息子の妻が看護婦であり、和から後継を託された存在でもあるという複雑な縁。その縁の糸を手繰れば、どこかに必ず、物静かな釛の存在があります。

嵐の最後まで

1929(昭和4)年、大関和は脳溢血で倒れ、半身不随となりました。日本の看護という専門職を自分の手で切り拓いてきた和が、今度は人に看護される側になったのです。

その傍らに、ずっといたのが釛でした。手が不自由になった姉のために食事を運び、着替えを手伝い、体を拭き、一日の始まりと終わりを共にしました。

 

大関看護婦会に出入りする後輩の看護婦・木下操も食事の手助けに来ましたが、釛は毎日欠かさずそこにいました。

亀山美知子の著書『大風のように生きて——日本最初の看護婦大関和物語』には、晩年の姉妹のある場面が書き留められています。

 

木下操が和に食事を食べさせ終えて帰った直後のことです。和が釛に向かってこう言いました。
「おサダさん、御飯、まだですか」(サダさん、とは釛の呼び名でした。)
「先刻、食べたばっかりでしょ」。
「いいえ、何もいただいてませんよ。おサダさん、早く御飯にしてちょうだい」。
「姉さんったら、操さんに食べさせてもらったでしょ、忘れちゃったの?」
「そんな意地悪言わないで。お腹空いたわ」

 

史書の記述はこう結んでいます。
「年老いた姉妹の軽い口喧嘩がはじまる。それでも釛は姉の和の世話をし続ける」と。

この一場面の中に、大関釛という人物のすべてがあるのではないでしょうか。喧嘩になっても、文句を言いながらでも、最後にはまた台所に立ち、姉の食事を用意する。

 

それが釛の生き方でした。語らず、叫ばず、ただ傍らにいる。1932(昭和7)年5月22日。大関和は74歳で息を引き取りました。

看護と伝道に命を燃やし尽くした姉の最期を、釛は見届けました。大関釛の生涯は、「明治のナイチンゲール」の陰に隠れた存在として語られることが多いかもしれません。

 

しかし考えてみれば、嵐のように生きた姉を最後まで支え続けた「静かな力」なくして、姉の偉業もまた成立しなかったのではないでしょうか。

歴史に名を刻んだのは姉の和でした。けれどその傍らには、毎日の食事を整え、家を守り、黙って寄り添う釛がいました。

 

表舞台には立たなくとも、誰かの人生を支え続ける。釛は生涯を通して、そんな役割を静かに引き受けた女性だったのかもしれません。