朝ドラ「らんまん」モデル・牧野富太郎の人生とは?

今回は、朝ドラらんまん」の主人公・槙野万太郎(神木隆之介)モデルになっている牧野富太郎(まきのとみたろう)さんの人生について紹介します

牧野富太郎さんと言えば、日本の植物学の父と呼ばれる植物学者です。2023年4月スタートの「らんまん」は牧野富太郎さんをモデルにしています。

 

具体的に、どんなことをされた人なのか。高知生まれの牧野富太郎さんがどんな人生を歩んだのか詳しく流れをみていきます。

牧野富太郎とは?

牧野富太郎

本名:  牧野富太郎(まきのとみたろう)
生年月日:1862(文久2)年4月24日
没年月日:1957(昭和32)年1月18日
出身:  高知県高岡郡佐川町出身

牧野富太郎さんは、文久2年4月24日に土佐の佐川村に生まれます。幼名は、成太郎。江戸時代の終わりの時期で、成太郎が生まれる1月前に坂本龍馬が土佐藩を脱藩しています。

江戸から明治に変わろうとする新しい時代に、成太郎は生まれたのです。成太郎の家は、大きな商家で酒蔵と小間物屋を営んでいました。

 

「見附の岸屋」と呼ばれ、武士でないのに苗字をもち、刀を持つことも許された名家の生まれでした。そのため、成太郎は裕福な子ども時代をすごします。

しかし、成太郎には家族運はありませんでした。幼い頃に、父親、母親を亡くし、6歳の時には祖父も亡くしました。成太郎に残されたのは、祖母・浪子だけでした。

 

浪子は、家族が次々と亡くなった悪い名前を断ち切るために、成太郎という名前を「富太郎」に変えました。

富太郎は、手足が長くやせっぽっちだったため、「西洋のハタットゥ」というあだ名がついていました。ハタットゥとは土佐の言葉でバッタのことです。

 

浪子は、富太郎の体が弱いのが気になり、クサギの虫やアマガエルの肝を飲ませたり、お灸をすえたり体が強くなると言われることは、なんでもしました。

しかし、富太郎は次第に体が強くなりました。物心がついたころには、草木をさがして野山を歩きまわっていたからです。

 

中でも、富太郎が気に入っていたのはバイカオウレンです。春を知らせる花で、家の裏山の神社に咲いていました。

小学校を自主退学

富太郎が小さい頃は、今のように小学校や中学校はありませんでした。当時の子供たちは、寺子屋で読み書きそろばんを習っていました。

富太郎も10歳になるころに、寺子屋で学びはじめます。そして、10歳の頃には佐川領主・深尾が開いた明教館にうつり勉強に励みます。

 

明教館では、中国の儒学の他に西欧の英語、地理、物理、天文などを学びます。富太郎は、物理や地理、自然の本がお気に入りでした。

「世界には、こんな草木があるのか」と富太郎は、本に描かれた絵を端から端までじっと見つめていました。

 

この明教館で習った、英語や中国語の力が後に独学で植物を研究する富太郎の礎となりました。明教館で学問を習っていると、学校制度がスタートし明教館が閉館します。

佐川にも小学校ができ、富太郎は13歳になっていましたが佐川の小学校に入学します。富太郎は、1年生の読み書きからはじめることに退屈を覚えます。

 

2年生になったころ、富太郎は自分で本を読んだり山で植物を見ている方が勉強になると考え、小学校をやめてしまいます。(自主退学)

その後、富太郎は野山を歩き、本を読みながら自由気ままにすごしていました。草木を手にとり、それをスケッチする。

 

絵を描くことは自然なことで、毎日興味があるものを見つけては絵を描いていました。友達の家やお医者さんの家に行き、植物の本を借りることもよくありました。

当時は、図鑑はなく植物の名前を知りたくても大人が薬草を調べるために使う本しかありませんでした。

 

その中で、富太郎は「重訂本草綱目啓蒙(じゅうていほんぞうこうもくけいもう)」がお気に入りで、20冊全部を浪子に頼み取り寄せてもらいました。

食べられる植物を紹介している「救荒本草」と「重訂本草綱目啓蒙」を図鑑かわりに使い、採取してきた植物の名前を調べます。

 

やがて、植物について真剣に勉強したいと考えて、富太郎は高知市にある五松学者という塾に通いはじめます。富太郎が17歳の時です。

富太郎は、高知市内に下宿して五松学者に通い始めましたが、コレラが流行してしまい佐川に戻らざるえなくなります。

永沼小一郎との出会い

その頃、富太郎は高知の中学校(高知師範学校)の先生・永沼小一郎と出会います。永沼小一郎は、植物学が好きで西洋のものを訳していました。

富太郎はその中でも、イギリスの植物学者・バルフォアの「クラスブック・オブ・ボタニイ」という本を見せてもらいました。

 

そこで、西洋では植物を分類ごとにわけていることを知り、新種の植物には「学名」をつけていることを教えてもらいます。

富太郎は、学名がつけば世界中の人たちと言葉がちがっても植物のやりとりができることを学びます。富太郎は、学名を学んでいくことでスポンジのように知識を積み上げていきます。

 

そして、いつかまだ名前のない植物を発見して、世界中に名前を発表する。富太郎は、そう決意しました。

富太郎は、永沼先生と出会い初めて「植物学」を知り、知識の広さに驚きます。永沼先生もまた富太郎が採取した植物の数に驚きました。その後、富太郎は永沼先生はずっと交流を続けていきます。

内国勧業博覧会を見に東京へ

1881年(明治14年)に、富太郎は人生で初めて東京に行くことになります。第2回内国勧業博覧会を見に行きたいことや、顕微鏡や本が欲しい。

その想いを祖母・浪子に伝えると、快く了承してくれました。ただ、浪子は心配だったこともあり富太郎と一緒に2人のお供をつけました。

 

富太郎たちは、蒸気船に乗って神戸港まで行きました。神戸から京都までは、蒸気機関車に乗り京都から四日市までは歩いていきました。

歩いている途中に植物を見つけると、すぐに採取する富太郎。東京に着く前に、すでに植物で荷物が大きくなっていました。

 

そして、四日市の港からふたたび蒸気船に乗り横浜まで行きます。横浜から新橋までは、汽車に乗りました。

内国勧業博覧会に到着すると、富太郎は次々と欲しい物を買っていきます。顕微鏡は、ドイツ製の良い物を見つけました。

 

本も欲しいものをどんどん買っていきます。こうして、部屋はあっという間に荷物でいっぱいになってしまいます。

富太郎は、顕微鏡と本が欲しいだけで東京に来たかったわけではありませんでした。博物図を作った博物局という役所を見ておきたかったのです。

 

博物局に行くと、動物の博物図をつくった植物学者・田中芳男に会いました。田中芳男は、土佐からわざわざ来たことや植物学を志していることの両方に驚きました。

田中芳男は、博物図を作るのに一緒に携わった小野職愨(おのもとよし)も紹介されました。小野は、代々医者の家系で、名の知れた本草学者でした。

 

2人からたくさんの本を教えてもらい、東京大学の研究所になった小石川植物園の案内をしてもらいました。

そして、土佐ではなかなか本の情報が入りにくいからと、新しい本でいい本が入れば紹介してくれることを約束してくれました。そして、質問があれば手紙で聞いてもかまわないとまで言われます。

 

富太郎は、すでに大先生であった研究者2人が自分のことを研究仲間のように扱ってくれたことが嬉しかった。

そして、富太郎はいつか日本のすべての植物を明らかにしようと決意したのです。

東京大学植物学研究室へ

土佐に帰った富太郎は、決断しなければならない時がやってきていました。それは、祖母・浪子が切り盛りする岸屋を継ぐということです。

跡取りは、自分しかいない。20歳になって、植物学のことだけを考えればよい時期はすぎていました。岸屋に対して富太郎はまったく関心がありませんでした。

 

しかし、祖母の気持ちを簡単に裏切ることもできない。そのため、植物学に一生をささげたいという思いは言い出せずにいました。

それでも、意を決して言います。植物学の研究をするため東京に行かせて欲しい。浪子は、富太郎の決意が固いことを感じ、止めませんでした。

 

1884年(明治17)、富太郎は22歳になって再び東京に向かいました。許してくれた浪子の思いも乗せての旅立ちでした。

富太郎が行ったのは、東京大学植物学教室でした。東京大学は、厳しい入学試験をパスしないと入れない狭き門です。小学2年生で退学した富太郎が入れるところではありません。

 

それでも、自分がやってきたことを信じて東京大学植物学教室の門をたたきます。手には「土佐植物目録」を抱えていました。

当時、東京大学植物学教室では、教授・矢田部良吉(やたべりょうきち)先生と助手・松村任三(まつむらじんぞう)が所属していました。

 

2人とも土佐からきた富太郎のことに興味深々です。「土佐植物目録」やたくさんの標本を見て驚きました。

さらに、富太郎の「日本中の植物を調べて研究したい」という大きな目標にも驚かされます。

 

矢田部教授は、富太郎に対する大きな心で東京大学植物学教室を利用して、標本や資料を見て研究してもいいと許可を与えました。

富太郎は、大学の近くに下宿して毎日通うようになります。これまで、調べてわからなかったことも植物学教室にくるとわかりました。

 

富太郎の部屋には、植物や標本でいっぱいになり山のように積まれていました。ついたあだ名は「たぬきの巣」です。

富太郎は、植物学教室の生徒とも仲良くなりました。植物の病理やサクラの研究で有名になる三好学や海藻の研究で名をあげる岡村金太郎。

 

きのこなどの菌類専門の田中延次郎、後にソテツの世界的な発見をする池野成一郎などが、次々と「たぬきの巣」にやってきて議論しました。

やがて、植物学の雑誌が必要だとの意見が一致して、富太郎は三好学、田中延次郎等と一緒に「植物学雑誌」第1号を発刊します。

 

富太郎たちが情熱をもって作ったこの「植物学雑誌」は130年以上たった現在でも、継続して発行されています。

祖母・浪子が病死

「植物学雑誌」第1号がでた年の春、祖母・浪子が亡くなりました。富太郎にとって、たった一人の家族であったため、とてつもなく寂しくなりました。

浪子は、家を守り、富太郎を守り、植物学へのおもいも理解してくれたかけがえのない祖母でした。おばあさまのためにも、植物学の世界で深く根を張り大きく花を咲かせる決意をします。

 

富太郎は、ますます植物学の研究に没頭するようになります。わからない標本は、ロシアの植物学者・マキシモヴィッチに送りました。

マキシモヴィッチに送った標本の中に、新種のものがあり学名がつきました。

「セダム(SEDUM) マキノ(MAKINOI)」

 

セダムとは、マンネングサの仲間につく名前で、「セダム・マキノイ」は、マンネングサの仲間で、マキノが発見したものという意味でした。

新種を発見した富太郎は、日本の「植物誌」を作りたいと思うようになります。植物誌とは、日本の植物のデータベースにあたるものです。

 

データベースを整えることは、重要な仕事ではありますが時間と手間がかかる仕事です。この地味で手間のかかることをできるのは自分しかいないと、富太郎は思っていました。

しかし、それは大変な作業でした。富太郎がつくった標本と大学の標本を合わせても全然足りない。地方のものを合わせると、標本がない物の方が多いのです。

 

しかも、出版しようと考えていたので、お金の問題もあります。大学は、学生でも学者でもない富太郎のものをだしてくれない。

出版社の協力も厳しい。そうなると、全部自分でやるしかなくなります。途方もない作業でした。それでも、富太郎は植物誌の作成を諦めませんでした。

 

詳しい説明は後回しにして、先に図解を示したものを本にすることにしました。詳しい説明は、本編として後ほど出すと決めました。

経費を削減するために、印刷も自分でやろうとします。神田にある石版印刷に行き、やり方を教えてもらおうと頼み込みます。

 

印刷所の主・太田義二は、富太郎の熱意に負け印刷の方法を教えてくれることになりました。こうして、富太郎は昼間に大学で植物画を描いて、夜に印刷の修業に行きました。

壽衛(すえ)と同棲

この頃、富太郎は心を寄せていた女性がいました。大学に行く途中による菓子屋の女性・壽衛(すえ)でした。

植物には思い込んだらまっすぐすすむ富太郎ですが、女性が相手ではどうにもなりませんでした。そこで、相談したのが印刷所の太田義二でした。

 

太田は、壽衛の母と父のことを知っていました。そのため、母親に話してみると富太郎に協力してくれました。

一方、壽衛の方もお菓子をいつも買っていく富太郎に心を惹かれており、話はとんとん拍子で進んでいきました。

 

1888(明治21)年、富太郎が26歳の時にふたりは根岸にある借家で同棲をスタートさせました。そして、その年の11月に富太郎が魂を込めて作った「日本植物志図編」の1冊目が完成しました。

自分で描いた植物画を自分で版にしました。この「日本植物志図編」は、当時の植物研究者に衝撃を与えました。

 

特に、その図が正確で細かく描かれていました。これを博物局の田中芳男と小野職愨は、「こんな図はみたことがない」と絶賛しました。

「たぬきの巣」に出入りしていた学生たちも、手放しに喜んでくれました。東京大学の助教授になっていた、松村任三も「日本で植物誌の図を描けるのは、牧野富太郎ただ一人である」と称賛します。

 

様々な、植物学者に評価されたことで富太郎は、自信を深めました。

新種「ヤマトグサ」

1889(明治22)年、以前より調べ続けていた植物がまだ世界で発表されていないことを確信して、「植物学雑誌」に掲載し、発表しました。

和名 ヤマトグサ
学名 セリゴヌム ヤポニクム

これは、日本の植物に日本人が名前をつけ、日本の学会誌で発表された初めての事例になりました。ヤマトグサは珍しい植物で、世界でも仲間が数種類だけしかありません。

 

1890(明治23)年にも、富太郎は世界に注目される新種を発見します。江戸川の土手をあるいていると、見たことのない水草を発見します。

富太郎は、これに「ムジナモ」という名前をつけて発表しました。富太郎は、ムジナモを調べ続けた結果、花が咲くこともわかりました。

 

こうして、牧野富太郎という名前が世界の植物学研究者に知られる存在になっていきました。

教室を出入り禁止

富太郎は、「ヤマトグサ」を発表した後、世界的に有名な「ムジナモ」も発見しました。長女・園子も生まれ、幸せな日々が続いていました。

しかし、これまで考えてもいなかったような苦難が待っていました。それは、東京大学植物学の教授。矢田部教授から大学への出入り禁止されたことから始まります。

 

6年前に、矢田部教授が大学の利用を快く受け入れてくれました。しかし、富太郎の出版している「日本植物志図編」は、大学の標本や本を使って出来ているもの。

矢田部教授も同じような物の出版を考えているからという理由で、出入りを禁止されてしまったのです。これほど、くじけるのは富太郎は初めてでした。

 

植物の研究ができなくなった富太郎は、ロシアのマキシモヴィッチに助けを求めます。富太郎は、ロシアに行くことを決意したのです。

壽衛は驚きますが、富太郎についていくことを決めます。そして、富太郎はマキシモヴィッチに手紙を出してお願いをしました。

 

富太郎の手紙の返事は、娘からきていました。そして、マキシモヴィッチは昨年、亡くなってしまっていたのです。

そんな、富太郎を心配したのが親友・池野誠一郎でした。池野や植物学研究室の仲間たちは、なんとか富太郎が研究できる場所を探してくれました。

 

駒場の農科大学でした。そこには、「植物学雑誌」第1号に共に寄稿した白井光太郎が助教授になっていました。

富太郎は、そこで植物学の研究を続けることができることになりました。そして、「日本植物志図編」を怒涛のようにだしていきます。

 

26歳に1冊目をだしてから、6冊目まで継続してきました。7冊目からは、毎月だしていったのです。

この中には、土佐のものがたくさん含まれていました。池野との思い出の植物に、新種のものがあり名前をつけました。これは、富太郎と池野の友情の証でもありました。

和名 エキサイゼリ
学名 アポディパルカム イケノイ

長女・園子が急死

富太郎が「日本植物志図編」を怒涛のようにだしていたある日、故郷の佐川から手紙が届きました。岸屋からの手紙で、一度戻ってきてほしいとの内容でした。

実家に帰って、岸屋の帳簿を見せられました。商売は、先細っており収入よりも富太郎へ送るお金の方が遥かに多かったのです。

 

富太郎の研究は、お金がもらえるものではありませんでした。そのため、暮らしや本の製作はすべて岸屋からの仕送りでまかなっていました。

しかし、仕送りはもう無理であることを理解しました。「日本植物志図編」も11冊で諦めるしかありませんでした。

 

そして、岸屋を整理しました。これからは、自分の足で家族の暮らしや生活を守っていかなければいけません。

普通なら、すぐに職を探すところですが坊ちゃん育ちの富太郎は、相変わらず土佐の植物を採取していました。時には、音楽会を開いたり・・・目の前のことに取り組むと周囲が見えなくなります。

 

そんなある日、東京大学から連絡がありました。矢田部教授がいなくなったので、戻ってきて東京大学の助手として採用したいうものでした。

教授になった松村任三からの手紙でした。富太郎は、土佐での用が終われば勤務することを約束しました。

 

そんなある日、壽衛から連絡がやってきます。長女の園子が亡くなったのです。園子は、風邪をこじらせていましたが、壽衛は生まれたばかりの次女・香代を抱えていました。

園子の風邪はひどくなり、壽衛は懸命に守ろうとしましたが亡くなってしまったのです。富太郎は、悲しみに暮れ園子を弔いました。

 

しかし、悲しんでばかりもいけないので大学で植物学教室の助手として働きはじめました。しかし、給料は15円です。

標本や必要な本を躊躇なく購入してしまう富太郎は、まったく足りませんでした。しかも、家族の暮らしもあります。貧乏との戦いがはじまります。

 

植物学教室は、松村教授が継いでおり富太郎はそこで働きます。助手というのは、教授や助教授を助けるのが仕事です。

しかし、富太郎はどんどん論文をだしていきます。富太郎のことを良く思ってない人もおり、やがて松村任三教授との関係も変化してきました。

「大日本植物志」刊行

そんな中でも、富太郎を助けてくれる人が存在しました。法科にいた土方寧教授でした。土佐の名教館の出身で、富太郎の先輩にあたる人物でした。

土方教授は、富太郎のために大学の総長に相談して、本を出す代わりに給料を上げてもらう約束をとりつけてくれたのです。

 

それが、「大日本植物志」でした。「日本植物志図編」の後に、富太郎がずっと出したいと思っていた本で、それを大学から出せるようになって全力を尽くします。

富太郎の図は、富太郎にしか描けないもので誰にも真似することができませんでした。そのため、次第に牧野富太郎の名前は世界に広まっていきます。

 

その一方で、貧乏との戦いは増え続けます。研究に使うお金は、湯水のように使っていきますので、親友の池野からも注意を受けるほどでした。

家族も増えて、食費や家計のお金もかさむ一方です。富太郎は仕方なく、借金をして生活をまかなっていました。

 

家には、借金の取り立てがしょっちゅうやってきます。それを壽衛がいなしていましたが、それも限界がやってきます。

家の中の金目になるものは、すべて差し押さえられた後に、今度は家賃の回収に大家さんがやってくるほどでした。

 

そんなことが多かったため、牧野富太郎一家は何度も引越しを余儀なくされました。そして、借金は減るどころか雪だるま式に増えていきます。

あまりの暮らしぶりに、土方教授が再び助け船をだしてくれます。同じ同郷の出世頭・岩崎弥太郎の弟・弥之助に助けを求めます。

 

三菱の社長・弥之助に借金を肩代わりしてもらいました。しかし、借金をチャラにしても生活は変わりません。再び借金を繰り返します。

子どもは、13人生まれて7人は亡くなりますがお金はかかる一方です。

大学の助手を休職と復帰

借金は増えていく一方にもかかわらず、富太郎は大学の助手をクビになってしまいます。大学の植物学教室には、富太郎のことを味方する人と疎ましく思う人たちがいます。

その疎ましく思う人たちが声をあげて、大学の仕事を辞めなければいけなくなったのです。形は休職になりました。その後、富太郎は東京植物同好会を立ち上げます。

 

しかし、その数年後には、富太郎を味方する池野たちを中心とした人物たちが声をあげ東京大学の学長に訴えかけます。

休職からわずか2年後に、富太郎は講師として大学に戻りました。給料は、30円に増えましたが富太郎の借金の額からいうと焼け石に水です。

 

富太郎は、遂に命のように大切な標本を売ることを決めました。海外の研究所に売って、まとまったお金に変えようとしていました。

貧乏で絶体絶命

この頃、富太郎の標本は30万点にものぼっていました。貴重な標本も多く、その価値を知っている人からすると売るというのは、考えられないものでした。

それでも売らなければいけない。富太郎の暮らしは、絶体絶命に追い込まれていたのです。しかし、ここでも富太郎に救いの手が差し伸べられました。

 

東京の新聞記者・渡辺忠吾が富太郎の暮らしが困窮していることを伝えたのです。牧野富太郎は、全国で有名になっていたので、新聞記事が話題になります。

そして、もう一人、富太郎を救う手が差し伸べられたのです。それは、神戸の池永孟でした。池永は、新聞を読んでなんとか富太郎を助けようと考えます。

 

池永は、まだ学生でしたが父の残した遺産がありました。そのお金を使って、富太郎の標本を買取ました。そして、建物を池永植物研究所として富太郎の標本を保管したのです。

そのことで、富太郎が借金を返済できました。しかも池永は、しばらくの間、富太郎の「研究費」も援助してくれました。

 

この2人が手を差し伸べてくれたおかげで、富太郎は絶体絶命のピンチを免れました。

「植物研究雑誌」刊行

富太郎は、研究で得た知識を大学内だけに積み上げるのではなく、広く人々に伝えていきました。そのため、「横浜植物会」や「東京植物同好会」も作って活動していました。

採取会を開くと、富太郎の周りにはいろんな人が植物の名前を聞きにやってきます。その質問に対して、富太郎はきちんと答えていました。

 

大学の授業でも、富太郎の授業は人気です。採取会を実施し、他の学部からもたくさんの人が参加していました。

こうした経験からプロが掲載する植物学雑誌だけでなく、アマチュアの人たちが気軽に報告できる本が必要だと感じます。

 

そのため、新しい本を出すことにします。出版社は、どこもその本を出したがらないのでまたしても自分で本を作ります。

本を作ることになると、お金のことはまったく気になってしまう富太郎は「植物研究雑誌」を刊行したのです。

 

この後、本を売ってもお金を支払ってくれない人が増えて、またしてもピンチになります。しかし、そこでも富太郎を助けてくれる人が現れます。

一度目は、標本を買ってくれた池永孟。二度目は、生計学園高等女学校延長・中村春二です。2人の援助で再会した「植物研究雑誌」ですが、関東大震災で全部燃え上がります。

 

しかも、中村春二が急死してしまいます。またしてもピンチを迎えた富太郎ですが、津村順天堂を経営する津村が助けてくれました。

「植物研究雑誌」は現在もツムラ製薬研究所から発刊され続けて、植物学に大きく貢献しています。

自宅を建てる

壽衛は、暮らしがよくするためには自分が働くしかないと考えました。元々、お座敷での歌や踊りに自信があったので、小料理屋をやりたいと思います。

壽衛は、富太郎の許しを得て、格安に物件を購入して小料理屋をスタートさせます。壽衛の予想通りに、店は繁盛しました。

 

暮らしに光が見えたところで、関東大震災が起きます。その後、大学の学長に壽衛がしている小料理屋がバレてしまいます。

当時、小料理屋は水商売に思われていたので、大学にとっては良くないことだったのです。そんなこともあり、店の繁盛も以前ほどではなくなりました。

 

そのため、壽衛は小料理屋を売却します。そして、武蔵野大泉という村に広い土地を購入します。そこに、小さな家を建てました。

壽衛は、関東大震災の火事を見て富太郎の標本が焼けないような広い土地がある家が欲しかったのです。

 

家賃が支払えなくて追い出される。そんな経験をすることがない家を富太郎は、壽衛のおかげで手に入れることができたのです。

妻・壽衛(すえ)の死去

新しい家で、初めて正月を迎えた時に元号は、大正から昭和に変更していました。それからほどなくして、壽衛は体調を崩しがちになります。

13人の子供を産んで、7人が亡くなり・・・6人の子供を育てた壽衛の体は、つかれ果てていました。次第に、病院に入ることが多くなっていきました。

 

この頃、富太郎は各地の採取会に大忙しで、東京にいる時間が少なくなっていました。この頃、夢中になっていたのは、ササでした。

そして、新種のササをとって家に持ち帰りました。家で壽衛に見せようとしますが、具合が悪くてしんどそうでした。

 

年が明けた昭和3年(1928)に壽衛は、入院して1ヶ月たたないうちに亡くなってしまいました。富太郎は、壽衛の死で悲しみにくれました。

富太郎は、仙台で採取したササに壽衛への気持ちを込めて名前をつけました。

 

和名 スエコザサ
学名 ササ スエコアナ マキノ

「牧野植物学全集」の刊行

壽衛が亡くなった後、富太郎は悲しみを振り払うように研究に没頭します。地方から講演を頼まれることも多くなり、全国を飛び回る生活をしていました。

富太郎の家は、相変わらずぎりぎりの生活をしていました。そのため、池野や農学部助教授の三宅驥一は富太郎に博士号をとるようにアドバイスします。

 

富太郎自身は、博士号に興味はなくとる必要もないと考えていましたが、あとに続く者が困ると言われて仕方なくとりました。

それが、壽衛が亡くなる1年前のことでした。給料は、12円あがりましたが富太郎にとっては、特に感激するようなものではありませんでした。

 

東大で研究ができたことは、価値の高いことではありましたが、常に教授に対して挑戦していく。その精神が富太郎にはあったからです。

そんな中、1934年(昭和9年)に「牧野植物学全集」が出版されました。これは、富太郎の集大成となるものでした。全6巻とふろく1巻という内容でした。

 

「日本植物志図編」など、富太郎がこれまで描きつづけた内容がまとめられていました。このシリーズで、富太郎は朝日文化賞を受賞しました。

そして、富太郎の周りはどんどん定年でいなくなっていきました。松村教授もいなくなりますが、富太郎は講師であるため定年がありません。

 

70歳をすぎても、大学講師として働き続けていました。周囲からいつになったら、辞めるのだろうとささやかれるようになった77歳に東大の講師を辞職しました。

「牧野日本植物図鑑」を刊行

東大を辞任した翌年、富太郎は「牧野日本植物図鑑」を刊行します。この図鑑こそ、富太郎の最大のヒット作になりました。

この図鑑こそが、富太郎が願った「たくさんの人に植物の知識を届ける」役割を果たすことになりました。牧野富太郎の最高傑作とも言われる作品です。

 

「牧野日本植物図鑑」は、持ち歩ける学生版も出版されて、当時の子供たちはみんなこの本を片手に植物を探索しました。

図鑑を出版した後にも、嬉しいことが続きました。満州にサクラの調査に行かせてもらえたのです。娘の鶴代をつきそうに満州に行きました。

 

富太郎は、初めてみる植物に大喜びで、昼間は採集、夜は押し葉づくりと徹夜する日も多くありました。予防接種の影響で、40度の熱が出た日もあります。

それでも、サクラが見えなくなると熱をおして山にでると、熱のことなど忘れて動き回りました。

 

さらに嬉しい出来事がありました。神戸の池永植物研究所にあった標本が返されたのです。まるでわが子が戻ってくるような気持ちになりました。

しかし、標本が戻ってきたのですが置く場所がありません。仕方なく、駅の倉庫に留め置いたままになってしまいます。

 

それを聞いた華道家の安達潮花が富太郎の家に倉庫を寄付してくれました。こうして、30年振りに標本が富太郎の元に戻ってきたのです。

富太郎は、安達が作ってくれた倉庫に「牧野植物標品館」と名付けました。

山梨県穂坂村へ疎開

昭和20年(1945)太平洋戦争により、東京は大空襲にあいます。富太郎は、それでも頑なに疎開をしませんでした。

自分の作った本や標本をうつせることはできないし、標本と一緒に死のうとさえ思っていました。それを鶴代が懸命に説得します。

 

ある日、富太郎の門の前に爆弾が落ちました。そして、毎晩防空壕に入ることで体調も崩しがちでした。そのため、山梨県穂坂村に疎開することになります。

こうして、富太郎は一番大事だと思う標本や本だけをもって、疎開しました。山梨では終戦までの間、書き物をしてすごしました。

天皇陛下へのご進講

終戦から2年が経過しました。富太郎は85歳になっても、採集にでかけたり原稿を書いたり活動的に動いていました。

来客も多く、外国から牧野富太郎を訪ねてやってくる研究者も多い。s1948年(昭和23)、忙しく生活していた富太郎に一本の電話がかかってきました。

 

天皇陛下にご進講するように、連絡があったのです。昭和天皇は、生物全般に造詣が深く、植物にも興味を持っていました。

富太郎は、コートを新品にかえ昭和天皇と一緒に御所を歩きます。御所には、武蔵野の植物がたくさんあり、富太郎は丁寧に説明しました。また、天皇陛下も富太郎の言葉を興味深く聞きました。

病気で危篤

1949年(昭和24年)の梅雨、富太郎は大腸炎で倒れました。医者は、手をつくしましたが意識がなくなり、脈も消えました。

医者は、富太郎の死を告げました。家族が集まり、富太郎に水を含ませます。すると、富太郎は水をごくりと飲み込みました。

 

87歳の奇跡的な復活でした。その後再び元気になり、以前と同じように採集ででかけたり、寄稿したりとしていました。

家族としては、もっとゆっくり休んで欲しい気持ちがありましたが、書斎で一度仕事をはじめると、夜中の2時、3時とずっと続けていました。

第1回文化功労者に選出

1951年(昭和26)、富太郎の仕事をたたえようと日本でうねりが起きました。富太郎は、第一回文化功労賞に選出されました。

この時、同じように文化功労賞に選ばれたのはノーベル賞の湯川秀樹や画家の横山大観、文豪の谷崎潤一郎などがいました。

 

同じ1951年に文部省に「牧野富太郎博士植物標本保存委員会」ができました。50万もある富太郎の標本の価値を認め、国で保存することになったのです。

1953年’(昭和28)には、東京都から名誉都民として表彰されました。

94歳で永眠

1954年(昭和29)、92歳になった富太郎は、体の衰えが目立ってきました。風邪をこじらせて、肺炎になり寝込んでしまいます。

それから、外に採集に行くことや起きて、仕事をすることができなくなりました。布団に横になっても、図鑑の手直しや双眼鏡で外を見たりしていました。

 

1956年(昭和31)には、寝たきりになり10月には病気が重くなります。日本中に、牧野富太郎が重篤との情報が流れ、全国からお見舞いの手紙が届きました。

故郷の高知では、牧野植物園をつくることが決まりました。しかし、富太郎は牧野植物園の完成を見ることができませんでした。

 

1957年(昭和32)1月18日に牧野富太郎は、94歳の人生に幕を閉じました。名付けた植物は、1500種。富太郎がかかわった植物同好会は今も多くが活発的に活動しています。

草木を自分の命とおもって愛した牧野富太郎の心は、今も受け継がれています。朝ドラ「らんまん」で牧野富太郎さんがどのように描かれるのか楽しみですね。



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