このページは、NHK朝ドラ「風薫る」の小日向栄介/寛太(藤原季節)のモデルとなっている鈴木良光(すずきよしみつ)さんについて紹介しています。
鈴木良光さんは、朝ドラ「風薫る」のW主役の一人・大家直美(上坂樹里)のモデル・鈴木雅(すずきまさ)さんと結婚しています。
鈴木良光さんと鈴木雅さんがどのように出会い結婚に至ったのかなどくわしく解説していきますので、最後まで御覧ください。
新政府の将校と、士族の娘
鈴木良光は、嘉永2(1849)年、幕臣・鈴木良右衛門の息子として江戸に生まれました。
徳川の世が終焉を迎えようとする混迷の時代に育った彼は、武士の矜持を持ちながらも、新しく誕生した明治政府の軍人としての道を歩み始めます。
安政4(1854)年、鈴木雅は静岡の士族・加藤家に生まれました。父は幕臣として激動の時代を生き抜いた人物でした。
時代は明治維新へと向かい、旧来の武士社会が崩れ去るなか、雅はフェリス・セミナリー(現フェリス女学院)で英学を修め、当時の女性としては先進的な教育を受けました。
良光は陸軍において着実にキャリアを積み、大阪鎮台歩兵第九連隊の第二大隊長を務めるなど、指揮官として頭角を現しました。
最終的な階級は歩兵少佐であり、従六位勲四等という栄誉を授かるほど、組織の中核を担う優秀な軍人であったことが伺えます。
西南戦争の傷跡と雅との出会い
鈴木良光と雅の人生において、決定的な転換点となったのが、明治10(1877)年に起きた西南戦争です。
西南戦争とは、明治維新の立役者でありながら新政府と対立した西郷隆盛が起こした、日本最後の内戦です。
この戦いで、鈴木良光は大隊長として最前線に立ちました。しかし、激戦の中で彼は太ももに重傷を負ってしまいます。
この時の傷は、当時の医学では完全に癒やすことが難しく、その後の彼の体調を長きにわたって苦しめることになります。
彼はその傷を抱えたまま戦後も軍務を続け、翌年の明治11(1878)年に加藤雅(後の鈴木雅)と結婚します。
京都、東京、仙台と転居を重ね、娘のみつ、息子の良一という二人の子宝にも恵まれました。軍人としての重責を果たしながら、家族とのささやかな幸せを噛み締めていた時期でした。
仙台での発病と、早すぎる最期
鈴木良光はその後、陸軍戸山学校の教官を経て、仙台鎮台(後の第2師団)の後備軍司令官として仙台へ赴任します。
しかし、西南戦争以来の古傷と、長年の軍務による過労が重なり、彼の健康状態は急速に悪化していきました。
明治16(1883)年、鈴木良光は仙台で病に倒れます。西南戦争で受けた銃創が、長い年月をかけて彼の命を蝕んでいたのです。
雅は懸命に良光を看病しましたが、当時は現代のような組織的な看護制度も、十分な医療知識も一般には普及していませんでした。
そのため、同年12月5日、良光は仙台の地で、わずか35歳という若さで帰らぬ人となります。歩兵少佐・従六位・勲四等。これが彼に与えられた最後の称号でした。
愛する妻と幼いふたりの子どもを遺しての、無念の死でした。この夫の死が鈴木雅に大きな後悔を残しました。
もし看護の技術があれば
鈴木良光が床に就いてから息を引き取るまでの間、雅はずっとそばにいました。しかし、彼女にできることは限られていました。
専門的な看護の知識も技術も、当時の彼女は持っていませんでした。良光の死は、残された雅に深い悲しみを植え付けました。
「もし自分に正しい看護の知識があれば、もっと夫を楽にしてあげられたのではないか」
「適切なケアがあれば、彼は死なずに済んだのではないか」
後年、雅はその時のことをこう語っています。
「夫は銃創が原因で床に就くようになり、四年前に亡くなりました。私は欧米のトレインド・ナースの存在を知っていたので、もし私に看護の技術があれば、夫は最後の時間をもっと安らかに過ごせたのではないかと悔やみました」(田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』より)
この一言が、彼女の後半生を決めます。
当時の看護は、家族が献身的に行う「情」の看護であり、科学的な「技術」としての看護は確立されていませんでした。
雅は、自分と同じように大切な人を亡くす人々を減らしたい。「看護」という仕事の重要性を世に知らしめたいという強く感じます。
そして、決意しました。鈴木雅はシングルマザーとして幼いふたりの子を抱えながら、当時まだ偏見の強かった看護の道へ飛び込むんだのです。
明治の女性にとって、夫なき後の人生を切り開くことは並大抵のことではありません。しかし、雅は立ち止まりませんでした。
夫の最期を安らかにできなかった後悔が、彼女の背を押し続けていました。明治19(1886)年、雅は桜井女学校附属看護婦養成所に第一期生として入学します。
当時28歳、幼い子を抱えての決断でした。養成所では、イギリスから来日した看護教育者アグネス・ヴェッチから直接指導を受けました。
ナイチンゲール方式の近代看護——徹底した衛生管理、科学的根拠に基づくケア、患者の尊厳を守る精神——それらを雅はここで学びました。
英語力を持つ彼女はヴェッチの通訳や助手も務め、同期の中でも際立った存在となりました。そして、この養成所で雅は、生涯の盟友と出会います。
大関和(おおぜき ちか)——同じくシングルマザーで、後に「明治のナイチンゲール」と並び称される女性です。
名もなき将校が遺したもの
鈴木良光という人物は、歴史の表舞台で語られることは少ないかもしれません。大阪鎮台歩兵第九連隊第二大隊長。西南戦争従軍。仙台にて病没。
歩兵少佐・従六位・勲四等。しかし、彼が軍人として命を懸けて戦い、そして病に倒れたという事実は、日本の看護教育の先駆者である鈴木雅を誕生させる最大の動機となりました。
彼の死がなければ、鈴木雅は看護師になっていなかったかもしれない。慈善看護婦会は生まれなかったかもしれない。日本の訪問看護の歴史は、別の形を取っていたかもしれない。
戦場で受けた一発の銃弾が、めぐりめぐって日本の看護史を動かした——そう考えてしまうのです。良光は新政府の陸軍将校として、激動の明治を誠実に生きました。
戦場での傷を抱えながら職務を続け、家族を得て、若くして逝った。ですが、彼が妻に残したのは悲しみだけではありませんでした。
「自分にできることをする」という意志を、雅は夫の死から受け取ったのです。
雅は後に、日本初の看護婦による機能団体「大日本看護婦人矯風会」を設立し、看護婦の地位向上と育成に一生を捧げます。
彼女の活躍の根底には、常に「愛する夫・良光を救えなかった」という痛みと、彼から受け継いだ「人の命を守る」という使命感がありました。
明治という時代は、男たちが歴史の表舞台に立ち、女たちが舞台裏でその痛みを引き受けた時代でした。鈴木良光はその一人として戦い、倒れた。
そして鈴木雅は、夫が果たせなかった「誰かを救う」という使命を、自らの手で形にしました。名もなき将校の短い生涯が、一人の女性の後半生を形づくり、日本の看護の夜明けに灯を点しました。
朝ドラ「風薫る」の寛太との違い
朝ドラ「風薫る」の小日向栄介/寛太(藤原季節)と鈴木良光さんの違いをここではみていきたいと思います。朝ドラの中で、栄介は鹿鳴館で身分も名前も偽って直美(上坂樹里)と初めて会います。
栄介は軍人と偽っていましたが、後にそれが嘘だと直美は知ることになります。名前も栄介ではなく、寛太です。
なので、鈴木良光さんとはかなり違うことがわかります。鈴木良光さんは、本当に軍人ですから大きく異なりますね。
ただ、直美に頼まれて寛太は夕凪(直美の母)のことを調べて報告していくことで親密になっていきます。
やがて、結婚することになるでしょうからここはモデル通りになるでしょう。ただ、出会いかたやウソをつかれていたというのは脚色だと思います。
でもその脚色の部分が面白いところでもあります。どんな形で、結婚に発展していくのか。朝ドラ「風薫る」も楽しみですね。










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