三宮八重野(千佳子/仲間由紀恵のモデル)はどんな人なの?

このページは、NHK朝ドラ「風薫る」の和泉千佳子(仲間由紀恵)のモデルである三宮八重野(さんのみや・やえの)さんについて紹介しています。

朝ドラの千佳子と三宮八重野さんのどんなところが同じなのか。どんなところが違うのかなどを最後にまとめていますので、最後まで御覧ください。

英国に生まれ、日本へ渡った

明治時代の日本には、多くの外国人が訪れていました。教師、医師、技術者、宣教師——。文明開化の波の中、日本は海外の知識を急速に取り入れようとしていたのです。

その一方で、日本へ渡り、日本人と結婚し、日本社会の中で生きた外国人女性たちもいました。その中のひとりに、三宮八重野さんはいました。

 

彼女はイギリス人として、イギリスのキングストン・アポン・ハルで商業を営むウィリアム・レイノアの娘、アレシーアとして生まれました。

父はイギリスの生地商で、比較的裕福な家庭の出身だったと考えられています。彼女の人生が大きく動いたのは、明治7年(1874年)のことでした。

 

夫となる三宮義胤が小松宮彰仁親王の随行として渡欧した際に、アレシーアと知り合い——結婚します。

義胤は幕末の尊王攘夷派活動家として岩倉具視らと王政復古運動に参加し、戊辰戦争を経て明治政府の外務省・宮内省に勤め、のちに宮内省式部長に昇り、1896(明治29)年には男爵を授けられた人物です。

 

当時、日本人と西洋人の結婚は、まだ珍しい時代でした。幕末から明治初期にかけて、日本はようやく鎖国を解き、西洋との交流を始めたばかりです。

言葉も文化も宗教も異なる相手と人生を共にすることは、今以上に大きな決断だったでしょう。1880(明治13)年、アレシーアは義胤の帰国に同行し、日本へ渡りました。

 

結婚後、アレシーアは「三宮八重野」という日本名を名乗りました。外国人女性が日本名を持つこと自体は、当時として特別珍しいことではありません。

とはいえ、そこには単なる形式以上の意味があったようにも感じられます。彼女は「外国人として日本に滞在する」のではなく、日本社会の中で暮らそうとしていたのです。

 

英国からやってきた女性として、慣れない言語と慣習の中で、男爵夫人として宮中に近い社交の場を生きることになりました。

もっとも、彼女の出自については諸説あります。地主・商家の令嬢という伝承がある一方で、外交官アーネスト・サトウはアレシーアを「下宿屋の娘」としているという記述も残っています。

鹿鳴館時代を支えた「西洋婦人」

明治政府は、西洋列強と肩を並べる国家を目指しており、軍事、法律、教育、建築など、あらゆる分野で近代化が進められていました。

そして、当時の外交の大きな部分を占めていたのは、夫人同伴の夜会や舞踏会でした。その象徴が、鹿鳴館です。

 

西洋式の舞踏会に洋装、テーブルマナー、外国語での会話——。急速な西洋化に日本人たちが戸惑っていたなかで、英語を母語とする八重野さんにとって、この環境はまさしく自分の持ち場でした。

華族夫人らへ西洋式の礼儀作法を教えていたと伝えられています。立ち居振る舞いや食事の作法、ときには会話の話題に至るまで——。社交マナーの指導は、外交と直結する重要な役割でした。

 

八重野さんは、その最前線に立っていました。夫・義胤は外事課長・調度局長・主殿頭などを歴任し、1895(明治28)年には式部長となり、10年余り務めた宮内省の要人です。

夫と共に八重野は、皇族の妃や上流華族の夫人たちと交わる場に自然と身を置いていたはずで
す。日本人と結婚し、日本名を持ち、日本社会で暮らしている。

 

彼女は常に二つの文化のあいだに立っていました。だからこそ、日本人の戸惑いも、西洋人の価値観も、両方を理解できたのかもしれません。

明治という時代は、華やかな文明開化として描かれることが多い一方、実際には多くの人々が不安と混乱の中にいました。

 

八重野さんのような存在は、その摩擦をやわらげる「緩衝材」のような役割を果たしていたのかもしれません。

大関和との出会い——病床での縁

八重野さんが語られる際に欠かせないのは、「明治のナイチンゲール」と呼ばれた看護師・大関和(1858〜1932)との印象的な関わりです。

大関和は桜井女学校附属看護婦養成所の一期生として、帝国大学医科大学附属第一医院で実習し、トレインドナース(近代的教育を受けた看護師)として修了しました。

 

当時の看護師は社会的地位の低い職業とされていましたが、大関和は看護婦として生涯を費やし、先駆者として活動しました。

1888年(明治21年)、八重野さんは病を患い、帝国大学医科大学第一医院へ入院します。現在の東京大学医学部附属病院へつながる、日本最先端の医療機関でした。

 

病名は乳がんだったとされています。当時のがん治療は、現代とは比べものにならないほど危険なものでした。抗生物質もなく、感染症の危険は常につきまとっていました。

それでも明治政府は、西洋医学を積極的に導入しようとしていました。執刀したのは、ドイツ人外科医ユリウス・スクリバ。

 

日本近代外科医学の発展に大きな影響を与えた〝お雇い外国人〟医師の一人でした。そして、八重野さんの看護に関わった実習生の中には、 大関和もいたと伝えられています。

西洋医学。外国人医師。新しい看護教育。華族や上流階級の患者たち。古い日本と新しい日本が、病室の中で交差していました。

 

その中で八重野さんは、患者として静かに時代の変化を見つめていたのでしょう。残された逸話の中には、入院中も他の患者へ気を配っていたという話があります。

もしそれが事実なら、彼女は単なる「西洋婦人」ではありませんでした。異国に生きる中で、人の孤独や不安を理解する感覚を持っていたのかもしれません。

 

田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)によれば、八重野さんは乳がんの手術のため帝国大学医科大学附属第一医院に入院し、大関和がその看護を担当しました。

病室に銀食器が並び、皇后の名代が見舞うその姿は、病床にあっても上流婦人としての存在感を失っていなかったといいます。

花魁への慈悲——病室から見せた人となり

この入院中、八重野さんの人柄を如実に示すエピソードが残っています。同じ病院に心中未遂の花魁が運び込まれたとき、八重野さんは大関和さんに果物などの見舞いを届けさせたといいます。

身分の高い男爵夫人が、当時社会の周縁に置かれていた花魁を思いやる——その行為は、当時の社会通念から見ればきわめて異例のことでした。

 

英国で育ち、キリスト教的な慈愛の精神に親しんでいた八重野さんならではの、自然な振る舞いだったのかもしれません。

大関和さんは看護には知識や技術だけでなく、品位や倫理、精神的な強さも求められると考えており、患者の世界に近寄っていくことを看護の根幹に置いていました。

 

そんな大関和さんにとって八重野さんの姿勢は、少なからず影響を与えたのかもしれません。病床で示された八重野さんの慈悲は、二人の間に単なる患者と看護師を超えた信頼関係を生んだと思われます。

八重野という人物の歴史的な位置

八重野さんの晩年については記録が乏しく、夫・義胤が1905(明治38)年8月14日に61歳で没したのち、彼女がどのような余生を送ったかはほとんど伝わっていません。

アレシーアの没年は1919年とされており、夫の死後もしばらく日本で過ごしたと考えられます。明治という時代を外国人夫人として生き、日本名「八重野」を名乗り、男爵家を支えた彼女の存在は、長い間歴史の隅に置かれてきました。

 

政治家や軍人なら、公文書や日記が残ります。しかしそれを支える女性たちは「誰かの妻」として断片的にしか記録されないことが少なくありませんでした。

だから八重野の人生も、ところどころ霞がかかったように見えます。けれど、その「見えなさ」こそ、彼女の時代を象徴しているようにも感じられます。

 

彼女は歴史の主役ではありませんでした。一方で、大関和さんとの邂逅という文脈の中で見ると、八重野さんの存在はひとつの輝きを持ちます。

大関和さんは多くの上流階級から声がかかり、鷹司侯爵夫人や徳大寺侯爵の看護にもあたったなかで、八重野さんとの縁は大関和さんを語る文脈のなかで紹介されています。

 

歴史の大きな流れは、名高い人物だけで作られるわけではありません。誰かと誰かをつなぎ、文化の隙間を埋め、日常の中で時代を支えた人々がいました。

三宮八重野さんは、そうした「境界を生きた女性」の一人だったのです。

千佳子と八重野の違い

NHK朝ドラ「風薫る」で、千佳子はりん(見上愛)が実習生としてくる病院に入院します。病名は乳がんです。

なので、八重野さんは乳がんの手術のため帝国大学に入院しているので、かなりモデル通りに描いていると思います。

 

また、八重野さんが入院しているときに花魁が入院してきたところは夕凪(村上穂乃佳)が入院してくるので、これも史実通りですね。

多少に脚色はあるかもしれませんが、かなりモデル通りに描いていると思います。「風薫る」の中では入院中がメインの話になるでしょう。

 

なので、実際にどうだったのか。千佳子と八重野さんの違いなどをよく見てみるとより朝ドラ「風薫る」を楽しめるはずです。




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