明治という時代は、多くの人間の運命を翻弄しました。激動の波は名もなき民にも、英雄と呼ばれた者の家族にも、等しく押し寄せました。
そんな中、強い光を放つ者のそばで、確かに生きた女性がいます。大関心(おおぜき・しん)。近代日本看護の草創期を切り開いた女性、大関和の娘です。
波乱の中に生まれた命
大関心は1880(明治13)年、旧黒羽藩士・渡辺福之進豊綱と大関和の長女として生まれました。六郎という兄がいます。しかし、心の誕生の頃、両親の結婚生活はすでに破綻へ向かっていました。
母・大関和は下野国黒羽藩(現在の栃木県)の家老・大関弾右衛門の次女として生まれ、18歳のとき、黒羽藩の次席家老の家柄であった渡辺福之進豊綱と結婚しました。
しかし夫には数人の妾がおり、すでに子どもがいたとも言われています。和が長男・六郎を産んだのちも状況は変わりませんでした。
次の子を身ごもったとき、ついに耐えかねた和は六郎の手を引いて東京の実家へ戻りました。こうして心は、母の離婚という波乱のただ中に生を受けました。
当時、女性から離縁を申し出ることは世間から白い目で見られる行為でした。母・和は、のちに「明治のナイチンゲール」と呼ばれる人物です。
しかしその人生は、決して平坦ではありませんでした。武家社会が崩壊した維新後の混乱、生活苦、離婚、そして二人の子を抱えながらの学業と仕事。
現代でいう「シングルマザー」として、彼女は近代看護の道を切り開いていきました。心は、そうして激動の只中に生まれた子どもでした。
離婚後、大関和は息子の六郎と娘の心、妹の釛(こく)、母の哲を連れて上京します。一家は東京で新たな生活を始めることとなりました。
祖母・哲の腕の中で育った幼少期
上京した和は、子どもたちを養うために懸命に働きます。女中奉公から始まり、英語塾へ通い、やがて鹿鳴館での通訳の仕事を得ました。
そして1886(明治19)年、和は桜井女学校付属看護婦養成所に第一期生として入学しました。全寮制であったため、和は子どもたちと離れて暮らすことになりました。
大関和は看護婦として働きながら、家計を支えました。そのため、幼い六郎と心の子育ては、和の母である哲が担いました。
大関哲は、旧黒羽藩家老家の女性です。幕末から明治という激動を生き抜き、没落した士族の暮らしを支えた人物でもありました。
哲は武家の誇りを強く持つ厳格な人物でしたが、孫の心を深い愛情で包みました。多忙な母に甘えたい盛りの心を抱きしめ、慈しみ育てたのは、家庭を守り続けた祖母の温もりでした。
祖母・哲。 母・和。 そして妹の大関釛。大関家の女性たちは、互いを支えながら生きていました。女性が一人で社会に立つことは極めて難しい時代です。
その中で大関家は、女性同士の支え合いによって時代を渡った家でもありました。和が帝国大学附属第一医院に赴き、さらには新潟県高田へ単身赴任として旅立つ日々の中で、心は東京の家で祖母とともに成長します。
その中で、多忙な母の生き方そのものが、心にとって憧れだったのかもしれません。心は、母が社会のために働く姿を、幼いころから自然に見ていました。
病人を看護する。 人のために尽くす。女性であっても学び、働く。そうした価値観は、心の中に静かに刻み込まれていったのではないでしょうか。
母への憧れ、看護の道へ
年月が経つにつれ、心は聡明で穏やかな娘へと成長しました。桜井女学校の後身である女子学院を卒業した心は、迷うことなく母と同じ職業——看護婦の道を志します。
母・和が身をもって示してきた「人の命に寄り添う生き方」への、深い共鳴だったのではないでしょうか。
当時の看護婦という職業は「看病婦」という呼び方が一般的で、専門職としての地位も有りませんでした。衛生観念も未成熟で、感染症の危険も大きい。
さらに女性が職業を持つこと自体、社会的偏見の対象になりやすかったのです。心は、そうした母の背中を見て育っていました。
和はトレインドナース(正規教育を受けた看護婦)として活動し、看護教育の発展に大きく貢献しています。
患者のために奔走し、感染症とも向き合い、時には社会的偏見とも戦う。看護とはどれほど尊い仕事であるかを――幼い頃から肌で知っていたのです。
祖母・哲の手の温かさ、母・和が患者のために奔走する姿——そうした記憶が、心を看護の世界へと引き寄せたのでしょう。
また、兄・六郎も、慈恵医院医学校へ進んでいます。兄妹そろって医療の道へ向かった背景には、大関家に「人を助ける仕事」への価値観が根付いていたのかもしれません。
武士の時代が終わり、多くの旧士族たちは新しい時代の意味を見失っていました。そんな中で大関家は、「人を支える」という形で、社会に関わろうとしていました。看護とは、剣でも政治でもない。
しかし、人の命のそばにある仕事でした。心は慈恵看護婦教育所に入学し、講義に励み、実習に向けて準備を重ねました。
母と同じ道を進み、いつか誰かの命を救える存在になること——そんな夢を胸に抱きながら、日々を過ごしていたのでしょう。
しかし、その未来への道は続きませんでした。1900年(明治33年)、心は在学中に、不治の病として恐れられていた「結核」を患います。
当時の結核は「亡国病」と恐れられ、一度発病すれば助からない病として人々を震え上がらせていました。
医療技術が未発達なこの時代、感染した者の多くは回復の見込みを持てなかったのです。これから人の命を救おうとしていた20歳の娘に、その無情な宣告が下されました。
発病後まもなく、看護の技術を学び、誰かの命を救おうとしていた心は、自身の命を救うことは叶いませんでした。20歳。あまりにも、あっけない最期でした。
母・和の慟哭
娘の死に接した大関和の悲嘆は、言葉に尽くしがたいものだったことでしょう。多くの患者を看取ってきた和は、誰よりも命の儚さを知っていたはずです。
史料には、和が心の死について、長く語った記録は多く残されていません。しかし、だからこそ――語れないほどの悲しみだったのではないでしょうか。
心の死からひと月ほど経った頃、ふさぎ込んでいた和は突然、一番町教会へ向かいました。
なぜ心が20歳の若さで逝かなければならないのか、なぜ熱心に信仰してきた自分がこんな目に遭わなければならないのか——和は師と仰ぐ植村正久牧師に問いを投げつけ、食ってかかったそうです。
それは信仰への抗議ではなく、母としての慟哭でした。看護の現場で幾度も死と向き合ってきた和が、娘の死の前では、一人の母として崩れ落ちました。
看護の道に人生を捧げた和にとって、娘と過ごせる時間は決して多くありませんでした。それは明治という時代を生きたシングルマザーとして、避けがたい選択の結果でもありました。
しかし母としての悲しみは、そのような理屈では慰められませんでした。育ての親である祖母・哲もまた、心の死の後から急に物忘れがひどくなったそうです。
祖母にとっても、心は生きがいそのものだったのです。心が残したもの大関心という人物の記録は、多くはありません。
20年という短い生涯の中で、歴史に名を刻む功績を残すことはできなかったかもしれません。しかしその存在は、母・和の残りの人生に深く影を落とし、同時に光も与え続けました。
後年、大関和の息子・六郎は、東京看護婦会の優秀な看護婦・澤本操という人物と結婚しました。
澤本操の快活で有能な立ち居振る舞いを見るたびに、大関和は在りし日の心の姿を重ね合わせずにはいられなかったといいます。
離婚家庭に生まれ。祖母に育てられ。働き続ける母の背を見つめ。その母と同じ看護の道へ進み。20歳で命を終えた。
もし結核に倒れることがなければ――心はどのような看護婦になっていたのでしょうか。母・和と並んで、明治・大正の看護の世界を切り拓く存在になっていたかもしれない。
答えはもちろんありません。心が残したのは、母の後悔と、消えない面影と、そして「看護の道を自ら選んだ」という一点の事実だけです。
大関心の人生をたどるとき、「日本のナイチンゲール」の別の顔を見ることになります。そこには、時代を切り開いた女性たちの栄光だけではなく、静かな痛みと言葉にならない喪失が存在しています。
そして、その痛みを抱えながら、それでも前へ進もうとした人々の姿こそ、明治という時代の、本当の人間らしさなのかもしれません。
大関和が1932年(昭和7年)に75歳でその生涯を閉じるまで——心の面影は、和の胸から離れることはありませんでした。










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