このページは、NHK朝ドラ「風薫る」の松井エイ(玄理)のモデルになっている峯尾ゑい(みねおえい)さんについて紹介していいきます。
NHK朝ドラ「風薫る」の中では、登場回数がそれほど多くありませんが、校長の梶原敏子(伊勢志摩)に愚痴をこぼす存在として描かれています。
実際のモデルになった峯尾ゑいさんがどんな人物だったのか。NHK朝ドラ「風薫る」の松井エイとどのように異なるのか具体的に見ていきます。
桜井女学校という出会いの場
明治という時代を迎え、日本は急速に西洋化へ向かっていました。その変化は、華やかな鹿鳴館や文明開化の町並みだけではありません。
医療や教育の現場でも、「近代」という名の新しい波が押し寄せました。桜井女学校は、1876(明治9)年に設立されたキリスト教系の女学校です。
その校内では、後に附属看護婦養成所が開設されることになります。
アメリカ人宣教師マリア・T・ツルーが実質的に経営・管理にあたり、女子の自治と自立を理念に掲げた、当時としては先進的な教育機関でした。
のちに新栄女学校と合併して現在の女子学院へと発展するこの学校は、明治の女性教育の草分けとして歴史に名を刻んでいます。
当時の日本には、まだ「専門教育を受けた看護婦」は存在していませんでした。病人の世話は家族や下働きの女性が担うものとされ、「看病婦」という仕事は、決して高い地位ではありませんでした。
その中でキリスト教宣教師たちは、ナイチンゲールの理念を基盤にした近代看護教育を日本にも根付かせようとしていました。
中心人物となったのが、アメリカ人宣教師マリア・ツルーです。そして、この新しい学校に、ひとりの女性が関わることになります。
峯尾ゑい(みねお・えい)。彼女は看護婦養成所の一期生ではありません。しかし、この学校の成功と運営を支えた重要人物の一人でした。
峯尾ゑいは、この桜井女学校の寄宿生として学んでいました。寄宿舎では同期の仲間と起居をともにし、掃除・洗濯・食事の準備をみずから担いながら、学問に励む生活が続きました。
仲間のなかには、のちに看護の道に進む佐野うめや、女子学院の発展に深く関わる三谷民子の姿もありました。ゑいがこの学校で身につけたのは、何より英語の力でした。
英語が堪能であったということは、当時の日本ではきわめて稀な才能です。鹿鳴館文化が華やかに花開いたこの時代。
英語ができる女性の存在感は、今日の想像をはるかに超えるものがありました。そしてその能力は、やがてゑいを歴史の場へと引き出すことになります。
看護婦養成所の草創と「先生」への抜擢
1886年(明治19年)、桜井女学校の中に看護婦養成所が設置されました。日本で正式な看護婦養成が始まったのは明治18年前後とされ、桜井の養成所は国内でも最初期の看護教育機関のひとつです。
当初8名が入学したこの養成所は、教える側も教えられる側も手探りのなかで授業が始まりました。
海外から招かれた教師陣が中心でしたが、専門の教師が揃うまでの間、学校は急ごしらえの対応を迫られることがありました。
そのとき白羽の矢が立ったのが、ゑいでした。英語が堪能であるという理由で、卒業を間近に控えた在校生でありながら、ゑいは看護婦養成所の教壇に立つことになったのです。
生徒でありながら教師でもある、という異例の役割です。ゑいの授業は、英語で書かれた看護の手引書を日本語に翻訳しながら説明する形で始まりました。
看護の心得や基本的な概念については、ゑいは自分の英語力をもって比較的スムーズに進めることができました。
しかし、医療器具の説明や実技を伴う内容になると、知識の限界が露わになることもありました。医療。看護。衛生。人体。日本にまだ十分な翻訳語すら整っていない分野です。
説明に窮するゑいをそっとかばったのは、年長の入学生である大関和(ちか)だったと伝えられています。
先生と生徒の関係が逆転するような、この草創期ならではの光景は、当時の養成所がいかに未整備な状態で出発したかを物語っています。
それでも、ゑいが教壇に立ち続けたことは看護教育の空白を埋める貴重な貢献でした。
正規の教師ではなく、自らも学びの途上にある若い女性が、英語力を頼りに専門的な看護の場を支えた——そこにはゑいの知的な誠実さと、責任を引き受ける気概が感じられます。
ゑいは、英語という知識を日本の女性たちへ届ける役割を担っていました。
宣教師の声を日本へ届けた通訳
峯尾ゑいが歴史に残した仕事は、教壇の上だけではありませんでした。マリア・ツルーが女性たちに向けて行った講演の場で、ゑいは通訳を務めています。
マリア・ツルーは、ただの教育者ではありませんでした。「日本の女子教育は日本女性の手によって完成させるべきである」という信念を持ち、女性の自立と高い志を求めた宣教師です。
彼女の言葉は、集まった女性たちの心に直接届けられる必要がありました。その言葉の橋渡しを担ったのが、ゑいです。ツルーは講演でこのように語りました。
この言葉を、ゑいは日本語に変換して聴衆へ届けました。通訳とは、単なる言葉を置き換えるだけでなく、話す人の思想や熱意を相手へ伝える役割でもありました。
ゑいが卒業を前にした一人の学生でありながらも、この大役を任されたという事実は、彼女への信頼の厚さを示しています。
当時、英語から日本語への通訳が自然にできる日本人女性は、ほとんどいませんでした。ゑいはその稀有な存在として、外国人宣教師と日本の女性たちをつなぐ「声」の役割を果たしました。
ツルーの理念が桜井女学校の生徒たちの胸に届いたとすれば、その一端はゑいの口から発せられた言葉によるものです。
大関和との交わり
峯尾ゑいと大関和(ちか)の関係は、単純な先輩後輩や友人関係では括れない、複雑な縦横の糸で結ばれていました。大関和は1858年(安政5年)生まれ。
黒羽藩の国家老の娘として育ち、離婚を経て上京した後、キリスト教に入信し、牧師・植村正久の勧めによって桜井女学校附属看護婦養成所の第一期生として入学しました。
入学時は28歳という年齢で、他の生徒より年上でした。ゑいはそのとき、まだ在校生でした。立場の上ではゑいが「教える側」、和が「学ぶ側」です。
しかしゑいが医療器具の説明に行き詰まったとき、年長者である和がさりげなくフォローに回ったという記録が残っています。
一方で、英語の世界においてはゑいが圧倒的に和の助けとなりました。西洋の看護知識は当時すべて英語で記されており、それを読み解ける人間がいなければ、養成所は成立しなかったのです。
このふたりの関係は、明治初期の女性教育の現場が持っていた独特の「相互扶助」の姿そのものです。誰もが何かを持ち、誰もが何かを欠いていた。
英語を訳せる者もいれば、看護の実地に強い者もいた。互いの不足を補い合いながら、養成所は形を整えていくーーそれが桜井女学校附属看護婦養成所の実態でした。
ゑいと和の関係は、そのような時代の縮図と言えるでしょう。明治初期の看護教育は、こうした無数の「名もなき支え」によって成立しているのではないでしょうか。
消えた名前、残った痕跡
後にゑいは、牧師の田村直臣と結婚し、渡米します。田村直臣は、明治キリスト教界を代表する牧師の一人です。
内村鑑三、植村正久、松村介石らと並び称されることもある人物で、日本のプロテスタント史において、重要な役割を果たしました。
峯尾ゑいについて現在に伝わる記録は、多くありません。大関和のように著書を残したわけでも、看護婦会を設立して組織を率いたわけでもありません。
佐野うめのように渡米してその後の消息が記録されたわけでもありません。しかし「記録が少ない」ということと、「歴史的に意味がなかった」ということは、まったく別の話です。
ゑいは、桜井女学校看護婦養成所という「はじまり」の場に確かにいました。英語という特技をもって教壇を支え、外国人宣教師の声を日本語に変えて届けた。
そして学びながら教え、教えながら学ぶという、この時代の教育現場が持っていた草創期特有の未成熟さを体現した人物でした。
歴史とは往々にして、目立つ結果を出した者の名前だけを語ります。しかし大きな仕事は、必ず名もなき支えによって成り立っています。
大関和が明治の看護史に名を刻むことができたのも、鈴木雅が日本初の派出看護婦会を設立できたのも、その背後に養成所という場があり、その場を支えた無数の人々がいたからです。
峯尾ゑいは、その「支えた人々」の中でも、特別に具体的な形で貢献した一人です。英語の手引書を翻訳しながら授業を行っていきました。
その姿は、西洋の看護知識が日本語として受け入れられていく過程を担った人物の一人として、日本近代看護史の出発点に刻まれています。
時代と時代の間に立ち、静かに橋を架けた——峯尾ゑいという人物の輪郭は薄くとも、その存在が占めた場所は、明治の女性たちが切り拓いた歴史の中に、今もひっそりと光っています。
松井エイと峯尾ゑいの違い
NHK朝ドラ「風薫る」の中で松井エイは、りん(見上愛)や直美(上坂樹里)たちの英語教師の役どころです。また、寮監もしている設定になっています。
実際の峯尾ゑいさんも教師をしていたのは間違いありませんが、舎監をしていたというのは脚色の部分かなって思います。
朝ドラ「風薫る」の中では、それほど通訳するところは見せていませんが・・・実際の峯尾ゑいさんはかなり生徒に通訳をしている部分があったのではないでしょうか。
また実際の峯尾ゑいさんは、卒業してすぐに看護養成所の先生になっています。その辺りも描かれていません。
登場シーンが多くないので、実際との違いを探すのは難しい存在ではありますが今後も注目してみていきたいと思います。










自分のつとめを怠ったり、自分に力があるのに他を助けなかったとき、苦痛を感じるような女性になりなさい。一人ひとり、活かされる道や与えられた器は違うが、他人や社会のために働くように