NHK朝ドラ「風薫る」でWヒロインの一人、直美(上坂樹里)の母として描かれている夕凪(村上穂乃佳)にはモデルがいます。
今回は、NHK朝ドラ「風薫る」で、夕凪のモデルになっている花紫(はなむらさき)さんについて紹介していきたいと思います。
名前だけが残った女性
1888(明治21)年。東京・本郷に建つ帝国大学医科大学附属第一医院(のちの東京大学医学部附属病院)の外科病棟は、いつにも増して張り詰めた空気に包まれていました。
花紫(はなむらさき)は、東京・根津周辺の遊女だったと伝えられています。当時の遊女は、現代の感覚で単純に語れる存在ではありません。
華やかな着物や浮世絵の世界の裏側で、多くの女性たちが貧困、家族の借財、身売りによって遊郭へ送られていました。
そこには自由よりも、「生きるための現実」がありました。花紫もまた、そうした時代の中を生きた女性だったのでしょう。
しかし彼女が歴史に姿を現すのは、あまりにも痛ましい出来事によってでした。当時の権勢を誇る重要人物の妻が手術のために入院して来ました。
英国系の女性・アレシーアは、三宮八重野(和泉千佳子/仲間由紀恵のモデル)として知られる人物です。このとき、大関和は成績の優秀さを評価され、付き添いの看護婦に選ばれました。
のちに「明治のナイチンゲール」と称されることになる大関和は、1888(明治21)年に看護婦養成所(桜井看護婦学校)を卒業し、帝国大学医科大学附属第一医院で外科看病婦取締となりました。
日本初の正規訓練を受けた看護師の一人として、病棟の最前線に立ったばかりのことでした。
アレシーアの付き添いは、毎日午前6時から夜8時まで続き、終わるころには身も心も削られて、寄宿舎に戻ると口もきけないほど疲労困憊していたそうです。
そのような、極限まで消耗した日々の中、花紫は現れました。心中未遂――。
記録によれば、彼女は客とともに心中を図り、重傷を負った状態で帝国大学医科大学第一病院へ運ばれています。
血に染まる花紫。そして看護に当たる大関和。この出会いは、決して劇的な友情物語ではありません。ただ患者と看護婦として、偶然交差した瞬間だったと言えるでしょう。
ですが、その短い交差は、後の時代まで静かな余韻を残すことになります。
「苦界」とはいかなる世界か
花紫は何者だったのか——。明治の花街において、花魁とは遊郭の頂点に立つ存在です。
艶やかな着物をまとい、高さのある下駄を独特の歩法で踏みしめ、禿(かむろ)や振袖新造を引き連れて練り歩く花魁道中は、見る者を圧倒する壮麗な光景だといいます。
華やかな表と、影のような裏側がそこに存在します。幼い頃に親に売られ、稽古と奉公の年月を重ね、客を取ることを強いられる——それが多くの遊女の現実でした。
花魁という地位を得た者は、客を選ぶ権利こそあれ、自由を売り渡した身であることに変わりはありません。
恋を知っても、その愛は成就しない。身請けされることを夢見ながら、夢のまま老いてゆく。遊郭の女性として花紫は、何を感じ、何を思っていたのでしょうか。
そして、花紫が心中を図ったとき彼女の胸の内に何があったのでしょうか。愛する者との死を選んだのか、それとも出口のない「苦界」からの逃亡を試みたのでしょうか。
身分の壁を越えた慈愛
明治という時代において、「遊女」と「看護婦」の社会的距離は、想像以上に大きかったといいます。看護婦という職業もまた、当時の社会では決して高く見られてはいませんでした。
「カネのために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業」と見なされていたのが、当時の看護婦に対する世間の目だったのです。しかし大関和には、そのような目線が存在しませんでした。
患者を身分でわけないこと。苦しむ者を支えること。衛生と献身を重視すること。それは当時としては、新しい考え方でした。
キリスト教の「慈愛」は、和にとって建て前ではなく、実践そのものだったのです。
貧しい患者には自分の給料を割いて世話をし、帝国大学の学生寮で火災が発生したときには、無償で看護を引き受けました。
誰に対しても、その姿勢は変わりませんでした。花紫は「遊女」ではなく「傷ついた患者」として扱われました。近代看護とは、単に医学知識を導入することではありません。
どんな境遇の相手にも、人として接する。その考え方そのものが、新しかったのです。花紫は、大関和の考え方の転換期を象徴する存在になりました。
女性たちの静かな共感
この逸話には、もう一人の女性が関わっています。アレシーア――三宮八重野です。英国人であるアレシーアは、当然ながら日本の身分制度の細部までを理解していたわけではなかったでしょう。
しかし彼女は、同じ病棟にいる花紫の存在を耳にしました。心中未遂で運び込まれた遊女——その事実が、異国人の彼女の心を動かしました。
アレシーアは和に花やお菓子を託すと、花紫を見舞うように、そしてキリスト教の愛に導くようにとことづけたそうです。
手術後の病床にある患者が、見舞いの花と菓子を別の患者に贈る——このアレシーアの行動は、当時の日本社会の常識から見れば、驚くべきことでした。
身分も職業も、彼女の慈悲の前では関係ありませんでした。ナイチンゲール精神が英国から日本へ渡り、さらに遊女の病床まで届こうとしていたのです。
本来なら、互いに言葉を交わすことすらなかったかもしれません。しかし病院という空間は、その境界をわずかに曖昧にしました。
「良妻賢母」が理想とされ、女性の価値は家庭や品位によって計られる傾向が強かった時代です。その中で遊女は、社会の周縁へ押しやられた存在でした。
だからこそ、八重野や大関和が花紫へ示した態度には、小さいながらも時代を超える意味があります。目の前で苦しむ女性を切り捨てない。派手な革命ではありません。
けれど歴史を、そして考え方を変える一歩は、こうして静かに始まるのではないでしょうか。花紫は退院の日、アレシーアの病室へ御礼を述べに行きました。
そして、これからは堅気な暮らしをすると約束して帰っていったそうです。「堅気な暮らし」——それがいかに困難な約束だったのでしょうか。
花街から足を洗うためには、多くの場合、借金の清算が必要でした。それでも花紫は、その言葉を口にしました。死の淵から引き戻された命で、再び生きることを選んだのです。
花紫が残したもの
花紫のその後について、確かなことはわかっていません。「堅気な暮らし」を全うできたのか。再び遊郭へ戻ったのか。それとも別の人生を歩んだのか。歴史は沈黙しています。
おそらく当時の社会にとって、遊女ひとりの人生は「記録する価値があるもの」とみなされなかっ
たのでしょう。そこに、明治という時代の残酷さがあります。
しかし、花紫のこの出来事は、大関和の心に長く残り続けました。看護とはなにか。その問いを映し出す存在として。
大関和が越後高田の女学校で舎監として働いた際には、廃娼運動に参加しました。かつて付き添った遊女・花紫のことを想い出していたのかもしれません。
廃娼運動とは、遊郭という制度そのものを社会からなくそうとする運動です。
大関和がその運動に身を投じたとき、彼女の脳裏に浮かんでいたのは、数字でも統計でもなく、病棟で出会った一人の人物の顔だったのではないでしょうか。
心中を図り、傷ついた身体で運ばれてきた、あの遊女の。花紫は名もなきひとりでした。しかし、その出会いは確かに、大関和という人物の社会への眼差しを形作りました。
花紫という名は、彼女自身の本名ではありません。遊郭でつけられた源氏名です。本名も、出身地も、その後の消息も、今日まで伝わっていません。
しかし、それでもいいのではないでしょうか。歴史というものは、いつも勝者と名声ある者だけを記録します。
記録に残らなかった無数の「花紫」たちが、明治という時代の影の中に存在しています。だからこそ今もなお、その名は静かに人の心に残るのです。
華やかな文明開化の灯りの届かない場所で、確かに生きていた一人の女性として。











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