このページは、NHKの朝ドラ「風薫る」の主人公・一ノ瀬りん(見上愛)のモデルになっている大関和(おおぜきちか)さんについて紹介しています。
大関和さんがどんな人だったのか。NHK朝ドラ「風薫る」のりんとどのように異なるのかも後半には見ていきますので、最後まで御覧ください。
戊辰戦争が変えた人生
明治という時代は多くの女性たちにとって、自らの生き方を選ぶことすら難しい時代でした。武家の娘として生まれた女性が社会の第一線へ出ることは、なおさら珍しいことだったのです。
そんな時代に、「看護」という新しい道を切り開いた女性がいました。後に「日本のナイチンゲール」と呼ばれることになる、大関和(おおぜきちか)さんです。
大関和さんは1858(安政5)年5月23日、下野国黒羽藩の国家老・大関増虎とその妻・哲(テツ)の次女として生まれました。
幕末の武家に生まれた彼女の幼少期は、やがて明治維新に揺さぶられます。大関和さんが十代を迎えるころ、日本はまさに激動の渦中にありました。
1868年、戊辰戦争。 会津戦争によって、北関東から東北にかけての地域は戦火に包まれ、多くの人々が命を落としました。
女性や子どもたちまでもが極限状態へ追い込まれた時代でした。若き日の和もまた、その現実を目の当たりにしました。負傷した人々。 苦しみながら横たわる兵士たち。
十分な医療もなく、命が失われていく光景。戊辰戦争の体験が、後年の和の進路選択に影響を与えた可能性が高いと考えられています。
慶応3年に藩主が死去すると父は辞職を余儀なくされ、一家は東京へ移住します。1876(明治9)年、大関和さんは同藩次席家老の渡辺家に嫁ぎました。
しかし、のちに2人の子を連れて離婚し、実家へ戻りました。明治の世で子連れの離婚は、社会的に重い烙印を意味していました。
武家の家柄も、もはや何も守ってはくれませんでした。しかし、大関和さんはその境遇を嘆くより行動することを選びます。
むしろ、新しい時代のなかで「女性が社会にできること」を探し始めていたようにも見えます。植村正久さんが主宰する正美英学塾で英語を学びます。
キリスト教の教義に深く感銘を受け、1887(明治20)年に洗礼を受けます。信仰は彼女に使命感を与え、次の一歩を踏み出す力となりました。
そして、その歩みはやがて、日本看護史に残る大きな足跡へ繋がっていきます。
看護という「未知の仕事」
現代では、看護師は専門職として広く知られています。しかし明治初期、日本にはまだ「近代看護」という概念自体がほとんど存在していませんでした。
病人の世話は家族が行うものとされ、衛生観念も十分とは言えず、看護は専門技術として確立されていなかったのです。そんな中、日本に西洋式看護の考え方が入り始めます。
大きな影響を与えたのが、クリミア戦争で活躍したフローレンス・ナイチンゲールの存在でした。
「看護とは、単なる世話ではない」
「衛生管理と観察によって、人の命を支える仕事である」
その思想は、日本にも少しずつ伝わっていきました。大関和さんは、そうした新しい時代の流れの中で歩みを始めます。
牧師・植村正久さんの勧めで、大関和さんは桜井女学校附属看護婦養成所に入学しました。
まだ女性の職業選択肢が限られていた時代、看護を志すこと自体が、非常に勇気のいる決断でした。しかも当時の看護は、今ほど社会的地位が高かったわけではありません。
「病人の世話をする仕事」 「汚れ仕事」偏見も強く残るなか、それでも大関和さんは患者と向き合い続けました。そこには、「役に立ちたい」という単純で強い願いがあったのでしょう。
1887(明治20)年、帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)がトレインド・ナース(専門的に訓練を受けた看護師)を養成することを決め、桜井看護学校からも大関和さん6人が実習生として選ばれました。
指導にあたったのは、ナイチンゲール看護学校の流れをくむイギリス人看護師アグネス・ヴェッチ(Agnes Vetch、1842〜1942)でした。
ナイチンゲールの思想が、海を越えて直接この学校に注ぎ込まれていました。1888年、大関和さん達は修了式を迎えてトレインド・ナースとなりました。
この年は慈恵看護婦教育所や京都看護婦学校も最初の卒業生を出しており、日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえます。大関和さんはそのとき31歳でした。
現場が教えたこと―感染症と衛生の壁
資格を取得した大関和さんは、帝国大学医科大学附属病院の外科看護婦取締(看護婦長)を2年間務めたのち退職します。
その後、新潟の高田女学校で舎監兼伝道師を経て、知命堂病院産婆看護婦養成所に勤務しました。新潟の地でぶつかったのが、コレラや赤痢という感染症の猛威でした。
排せつ物の適切な処理、換気、患者の身体や衣服を清潔に保つこと――今日では基本とされる衛生管理が、当時はまだ現場に根付いていませんでした。
赤痢の集団感染の際には、地域住民にも衛生管理への協力を呼びかけました。大関和さんの真摯な姿勢は次第に人々の心を動かし、感染対策は地域ぐるみで進められていきます。
ナイチンゲール流の衛生思想に基づく対策は、現場で一定の成果を上げたと伝えられています。
知識を持つだけでは足りない。地域の人々に理解してもらい、一緒に動いてもらわなければ衛生は実現しない。大関和さんはそれを現場で学んだのです。
組織を作り、制度を動かす
その間、大関和さんは社会主義者として知られる木下尚江(きのしたなおえ)さんとの結婚を断念しています。詳しい経緯は明確には残されていません。
しかし、看護への献身と私生活の選択が交差する時期があったことは確かなようです。大関和さんが向き合っていたのは、単なる個人の幸福だけではありませんでした。
近代日本において、「看護」という仕事そのものを社会に根づかせるという、大きな課題だったのです。当時、日本の看護制度はまだ始まったばかりでした。
教育内容も統一されておらず、資格制度も未成熟。病院ごとに考え方や技術水準が異なり、看護婦たちの立場も決して安定したものではありませんでした。
大関和さんは、現場で患者と向き合うだけでなく、「看護師をどう育てるか」という問題にも深く関わっていきます。後進の育成に力を注ぎ、看護教育の必要性を訴え続けました。
経験だけに頼るのではなく、知識と技術を学ぶ場が必要である――。それは、ナイチンゲール看護の思想にも通じる考え方でした。
さらに、大関和さんは著書『看護法』を著し、衛生管理や患者対応、看護婦としての心得などを記しました。
まだ看護教育の教材自体が少なかった時代、その存在は現場で学ぶ多くの女性たちにとって、大きな助けとなったと考えられています。
また、日本看護婦会の活動にも関わり、看護婦たちの地位向上や制度整備にも尽力しました。看護は「誰かを助けたい」という思いだけでは続けられない。
教育、制度、そして社会的理解。それらが揃って初めて、職業として根づいていく。大関和さんは、その現実をよく理解していたのでしょう。
やがて大関和さんは、「日本のナイチンゲール」と称されるようになります。もちろん、それは単なる美称ではありません。
患者に寄り添いながら、日本の近代看護の基盤づくりに関わったこと。看護教育に尽くしたこと。制度整備と後進育成に力を注いだこと。
女性の社会進出が難しい時代に、先駆者として歩み続けたこと。そうした功績が積み重なった結果でした。
ただ、ここで忘れてはならないのは、大関和さん自身が「英雄」として華々しく振る舞った人物ではないという点です。彼女の足跡には、どこか静けさがあります。
前へ前へと出るよりも、苦しむ人のそばに立つ。声高に理想を語るより、目の前の仕事を誠実に続ける。そんな人物像が浮かび上がってきます。
だからこそ、大関和さんの人生には独特の重みがあります。明治日本は、「近代化」という言葉の裏で、多くの人々が不安と混乱を抱えた時代でした。
価値観が崩れ、身分制度が消え、昨日までの常識が通じなくなる。その中で大関和さんは、「人を支える」という行為を選び続けました。
それは激動の時代において、決して目立たないけれど、とても尊い営みだったのでしょう。
静かな灯を、次の時代へ
大関和さんは1932(昭和7)年5月22日に74年の生涯を閉じました。彼女が生きた時代、看護は「職業」として認知されてすらいませんでした。
士族の家柄も夫の庇護も失い、2人の子を抱えた大関和さんが選んだのは、まだ誰も歩いていない道でした。
現場で衛生を広め、組織を立ち上げ、後進を育て、著書を書き、制度の整備を訴え続けました。現在、日本には数多くの看護師がいます。
病院で。施設で。地域で。災害現場で。人々の命と暮らしを支える存在として、看護は社会に欠かせない仕事になりました。
その礎を築いた先人の一人が、大関和さんだったのです。彼女の人生は、決して派手ではありません。けれど、その歩みには、時代を超えて残る強さがあります。
苦しい時代を生き抜きながら、人を支えることを選んだ女性。社会の偏見や困難の中でも、新しい道を切り開いた女性。
そして、「看護とは何か」を日本に根づかせようとした女性。しかし、彼女が積み重ねたひとつひとつの行動が、現在の日本の看護の土台になっています。
大関和さんの人生を見つめていると、明治という時代の冷たい風の中に、小さな灯火がともっているように感じられます。
それは決して激しい炎ではありません。けれど、誰かの苦しみに寄り添おうとする、その静かな光は、今も日本の看護の歴史の中で、確かに受け継がれています。
りんと大関和さんの違い
ここでは、NHK朝ドラ「風薫る」の一ノ瀬りんとモデルの大関和さんはどう異なるのかお伝えしていきたいと思います。
りんは大関和さんをかなりモデル通りにうつしていると言っていいと思います。大きく異なるところとしては、英語を教会で教えてもらっているところです。
この辺りは、もう一人のヒロインである直美(上坂樹里)が設定されていることから、Wヒロイン同士で少しずつ入れ違いにしているのかなと思います。
現段階では、りんはシマケン(佐野晶哉)と恋愛に発展していませんが展開的に恋愛に発展していくのはほぼ間違いありません。
ただし、シマケンのモデルになっている木下尚江さんとの結婚は断念しています。なので、NHK朝ドラ「風薫る」でも、りんは再婚を断念するのでしょうか。
りんとシマケンがどのようになっていくのか。モデルのことを知りつつ、りんの今後を考えていくと少し違う楽しみ方ができると思います。
あなたにおススメのページ
直美/上坂樹里のモデルはコチラ
美津/水野美紀のモデルはコチラ
バーンズ/エマハワードのモデルはコチラ
吉江/原田泰造のモデルはコチラ
風薫る ネタバレ,あらすじまとめ










コメントを残す