このページは、NHKの朝ドラ「風薫る」のWヒロインの一人、直美(上坂樹里)のモデルなっている鈴木雅(すずきまさ)さんについて紹介しています。
実際に、NHK朝ドラ「風薫る」の直美と鈴木雅さんがどのように異なるのか。どんなところが同じなのか詳しく見ていきます。
目次
失意の先で見つけた道
明治という時代、日本は急速に近代国家への道を歩み始めていました。鉄道が走り、洋装が広がり、西洋医学もまた日本へ根を下ろし始めます。
しかしその一方で、人々の暮らしの中には、まだ江戸時代の空気が色濃く残っていました。病人の世話は家族が行うもの。
女性が専門知識を学び、職業として医療に携わるという考えは、ほとんど存在していなかったのです。そんな時代に、後の日本看護史へ確かな足跡を残す一人の女性がいました。
鈴木雅(すずき・まさ)です。鈴木雅は、1857(安政4)年、現在の静岡県で生まれたとされています。旧姓は加藤。
父・加藤信盛は鳥羽伏見の戦いに参戦し、日本各地を転戦したのち、最後は函館・五稜郭に立て籠もり、それでも生き延びた人物です。
文字通り、激動の時代を体で通り抜けた武士の娘として育ったと伝えられていますが、彼女の幼少期について詳しい記録は多く残されていません。
けれど、後年の歩みを見る限り、困難の中でも行動を止めない人物だったことはうかがえます。幕末から明治へ。時代がひっくり返るなかでも、雅は教育の機会を与えられました。
フェリス・セミナリーや横浜共立女学校で英学を修め、当時の女性としては先進的な教育を受けた知性あふれる人物でした。
その学びが、後の人生を支える大きな力になっていきます。雅は若くして、陸軍士官であった鈴木良光(寛太/藤原季節モデル)と結婚しました。
夫は西南戦争にて大阪鎮台歩兵第9連隊第2大隊大隊長を務めた人物でしたが、後に仙台にて病気によって早くに亡くなります。
雅は二人の子どもを抱えた未亡人となりました。明治という時代に、女性が一人で子どもを育てながら生きていくことは容易ではありませんでした。
まして幼い子どもを抱えていれば、その苦労は想像に難くありません。再婚するか、親元に頼るか。それが当時の「当たり前」でした。しかし雅は、そのどちらも選びませんでした。
後年、「夫を看病した経験が看護を志すきっかけになった」と語られています。もしもっと知識があれば。もしもっと適切な看護ができていたなら――。
その悔いが、彼女の人生を静かに動かしたのかもしれません。
「看護婦」という道を、誰も歩いていなかった
明治初期、日本にはまだ「看護婦」という職業が社会的に確立していませんでした。病院で患者の世話をする女性たちはいても、体系的教育を受けた専門職ではありません。
看病は「家の仕事」であり、「学問」ではなかったのです。「看護婦は身分の低い女性が金のために働く汚れ仕事」と見なされており、家柄の良い女性が看護を志すこと自体が「恥」でした。
社会的地位も非常に低かったのです。その常識を変えようとしていた場所がありました。東京築地に設立された、桜井女学校附属看護婦養成所。
ここで日本は初めて、本格的な近代看護教育を始めようとしていたのです。鈴木雅は、その門を叩きました。子どもを抱えた未亡人が、新しい職業教育の世界へ飛び込む。
それは当時としては、かなり勇気のいる決断だったはずです。けれど雅は、自分の人生を「失った側」で終わらせませんでした。
悲しみを誰かを支える力へ変えようとしたのです。その歩みの先で、彼女は後に「日本のナイチンゲール」と呼ばれる女性、大関和と出会うことになります。
養成所ではイギリスから来日した看護教育者、アグネス・ヴェッチから直接指導を受け、徹底した衛生管理や患者中心のケアを学びました。
この「ナイチンゲール方式」の看護は、技術だけでなく、患者の尊厳を重んじる近代看護の考え方も教えられていました。
ここで雅の英語力が輝きます。英語に堪能だった雅は、ヴェッチの講義や臨床実習での指導に際して通訳を務めました。
看護教育が始まったばかりの時代、外国人教師による授業内容を日本人の生徒たちに伝える役割は、きわめて重要でした。
雅は、学ぶ側であると同時に、新しい看護知識を橋渡しする存在でもあったのです。看護とは単なる雑務ではない。
患者を回復へ導くための専門技術であり、人間を支える仕事なのだと。夜遅くまで続く実習。緊張感のある病室。慣れない西洋医学の知識。
その中で彼女たちは、日本にまだ存在していなかった職業を、自らの手で形にしていったのです。近代看護の始まりとは、制度が先に完成した物語ではありません。
名もなき女性たちが、試行錯誤の中で少しずつ築き上げた歴史でした。武士の家に生まれた才気ある女性が、蔑視される「看護婦」の道を進み、しかもその現場で不可欠な存在となっていきます。
そうした歩みからは、鈴木雅が強い実務意識を持っていたことがうかがえます。その最前線にいた一人として。残された記録からは、理想論よりも現場を重んじる人物像が浮かび上がります。
帝大病院の婦長として
卒業後、雅は看護婦として実務の現場へ入り、やがて帝国大学医科大学附属第一医院における内科の看護婦取締役(看護婦長)を務めるようになります。
当時の病院は、現在のように整った医療環境ではありませんでした。感染症は今よりはるかに身近で、衛生管理も発展途上です。
大部屋には多くの患者が並び、看護婦たちは昼夜を問わず働いていたといいます。しかも、「訓練された看護婦」という存在そのものが、まだ社会に十分理解されていない時代でした。
医師の補助をするだけの仕事と思われることも多く、専門職としての立場は弱かったのです。そんな環境の中で、雅は現場を支える側に立ちました。
患者の容態を観察し、衛生を保ち、看護婦たちをまとめる。看護婦長という立場は、単なる役職ではありません。病棟全体を動かす実務責任者でもありました。
一方で、病院の外には、また別の現実がありました。当時、多くの人々は自宅で療養していました。入院制度はまだ十分に整っておらず、病気になると家族が看病を担うのが一般的だったのです。
けれど、適切な看護知識を持つ家庭は、ほとんどありませんでした。高熱の患者へ、どう対応すればいいのか。衰弱した患者へ、どのような食事を与えるべきなのか。
感染を防ぐには、なにが必要なのか。現代では当たり前とされる知識も、当時はまだ広く知られていませんでした。雅は病院で働く中で、その現実を目の当たりにしていったのでしょう。
病院の中だけでは、人を支えきれない。退院したあとにも看護は必要であり、家庭にも専門的な支えが求められている。そうした思いが、次第に雅を新しい活動へ向かわせていきます。
看護を、病院だけに留めない。必要としている人の暮らしの場へ届ける。雅は、新しい仕組みを看護の場に持ち込みます。「派遣看護」です。
日本初の「派出看護婦会」── 訪問看護の誕生
1891(明治24)年、東京本郷に「慈善看護婦会」(のちの東京看護婦会)を創設し、その運営に尽
力します。これが、日本最初の派出看護婦会です。
派出看護婦とは、病院の中だけでなく、患者の家庭などに出向いて看護にあたる看護婦のことで
す。現在の在宅看護にも通じるこの仕組みは、当時としては画期的な試みでした。
明治の日本では、貧富による医療格差も大きな問題でした。裕福な家庭は医師を呼べても、貧しい人々は十分な治療を受けられない。
そんな中、鈴木雅は貧困家庭へ、無償で看護婦を派遣したとも伝えられています。
「慈善看護婦会」という名前には、「慈善」つまり無償での看護を強調し、派出看護を上流家庭だ
けではなく、広く庶民にまで浸透させたいという気持ちが表れていました。
看護を限られた階層だけのものにしないという考えが、そこにはあったのかもしれません。しかし厳しい現実を目の当たりにします。
無償の看護によって経営が行き詰まってしまい、「慈善」という文字を外さなければならなくなりま
した。移転するにあたり、会の名称を「東京看護婦会」と改めます。
理想と経営の間で雅は苦しみますが、その活動は日本社会に少しずつ変化を与えていきます。看護婦は病院の下働きではない。
専門知識を持ち、人の命と生活を支える仕事なのだ。そうした認識が、ゆっくりと社会へ広がり始めました。華々しい改革者として歴史に名を残す人もいます。
けれど、社会を本当に変えるのは、こうした「地道に仕組みを育てる人々」なのではないでしょう
か。
静かな先駆者―― 雅が変えたもの
鈴木雅を語る時、大関和の存在を避けて通ることはできません。でもそれは「有名な大関和の脇役」という意味ではありません。
ふたりは、日本近代看護を異なる方向から支えた同志です。大関和は、病院看護や感染症看護、看護教育の発展に力を尽くしました。
看護という職業の専門性を高め、社会的地位を押し上げようとした人物です。一方、鈴木雅は看護を社会生活へ浸透させようとしました。
病院だけでなく、人々の暮らしの中へ。家庭、そして地域へ。ふたりは異なる資質を持ちながら、同じ方向を見ていたのでしょう。
そこには、同じ時代を切り開いた者同士の結びつきが見えてきます。鈴木雅は、「必要としている人の元へ看護を届ける」という考えを、日本社会へ根付かせた先駆者でした。
過度な英雄性はありません。劇的な演説も、派手な逸話も多くは残されていません。だからこそ、その生き方には現実味があります。
明治という時代、日本は「近代化」という大きな言葉で語られます。病院、家庭、看護婦会――。そうしたひとつひとつの現場から、日本の看護は形作られていきました。
鈴木雅の詳しい晩年については、明確にたどれない部分もあります。しかし残された記録を見ても、雅が日本の近代看護においてきわめて重要な働きをしたことは確かです。
看護教育の最前線で学び、外国人教師と日本人看護婦の間をつなぎました。病院で実務にあたり、さらに家庭へと看護を広げていった。
その雅の足跡は、日本で看護が専門職として根づいていく過程そのものと重なっています。
1940(昭和15)年6月11日。鈴木雅の生涯は83年で幕を閉じました。華々しい功績を語るよりも、目の前の患者に向き合う実務に力を尽くした人物だったのでしょう。
彼女は看護を「制度」だけで終わらせませんでした。人の暮らしへ、生活へ、痛みのある場所へ運び込みました。
明治という混乱の時代に、二人の子を抱えながら、誰も整備していない道を一人で切り開きました。
看護を、病院の中だけではなく、人々の暮らしの中へ広げていったこと。その歩みは、日本の近代看護史の中で、今も静かに息づいています。
直美と鈴木雅の違い
ここでは、NHK朝ドラ「風薫る」の直美のモデルになっている鈴木雅さんの違いと同じところを見ていきたいと思います。
「風薫る」の中で、直美は幼い頃に親に捨てられて教会に育てられました。そこで、英語を習得してきました。
しかし、鈴木雅さんは幼い頃の記録は残っていませんが武士の娘として育ちます。横浜共立女学校で英語を学んでいます。
なので、英語ができるという点は直美と鈴木雅さんは同じです。しかし、家庭環境は異なっており直美と異なり、鈴木雅さんは武士の娘でした。
しかも、看護養成所に行くときに鈴木雅さんは子どもがいました。この辺りは、「風薫る」のもう一人のヒロイン・りん(見上愛)と入れ替わっていると思われます。
武士の娘という点も、りんが武士の娘になっています。りんのモデルである大関和(おおぜきちか)さんが教会で育っていることから、意図的に入れ替えているのだと思います。
また、NHK朝ドラ「風薫る」の今後の見どころとしては、詐欺師だった寛太(藤原季節)と直美がモデルと同じように結婚するのかどうか。ここがとても楽しみなところです。
NHK朝ドラ「風薫る」の登場人物と実在モデルの違いを見ていくと、今後、朝ドラ「風薫る」が更に面白くなるでしょう。









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