今回は、NHK朝ドラ「らんまん」の里中芳生(いとうせいこう)の実在モデルである田中芳男(たなかよしお)さんをご紹介します。
また、後半にはらんまんの里中芳生と田中芳男さんがどのようなところが同じで、どんなところが違うのかをみていきます。
田中芳男とは?
田中芳男さんは、日本の博物館の父と知られる博物学者です。主に、幕末から明治期にかけて活躍している人物になります。
生まれは、信濃国伊那郡飯田城下(現在の長野県飯田市)になります。父は医師・田中隆三で芳男は三男です。
しかし、三男ですが兄が病死したこともあり、医業と家督を継いでいます。1856年に名古屋に出て、博物学者の伊藤圭介の門下に入ります。そこで、博物学と本草学を学びました。
その後、伊藤圭介の助手として幕府に仕え、物産学・本草学の研究開発を担当しました。1866年(慶応2年)パリ万国博覧会に出張して、昆虫標本採集を行います。
明治になってからは、明治の政府の官僚として大阪舎密局の建設に従事します。この建物を科学だけに限らず、物理学その他自然科学全般を研究する組織機関として、博物館と提案します。
その後、大阪舎密局は予算が足りず建設されませんでしたが、博覧会や博物館の創設に多数かかわっていきます。
牧野富太郎との関係
明治14年(1881)、牧野富太郎さんは第2回内国博覧会を見に東京へやってきました。そこで、博物図をつくってる博物局も見学に行きました。
そこで、出会ったのが田中芳男さんです。富太郎さんは、動物の博物図を作っている田中芳男さんのことを知っていました。
田中芳男さんは、「デ・カンドルレ氏 植物自然分科表」を翻訳した人でもあり、富太郎さんにとっては雲の上の存在です。そのため、こんな会話をしています。
富太郎
「僕は、植物が好きで植物の研究を志しています。土佐の小学校で見た先生の博物図を今も忘れられません。」
田中
「土佐から私を訪ねていらしたのですか。」
田中芳男さんは、土佐からわざわざ自分を訪ねてきたことに驚きます。しかも、牧野富太郎さんは植物学を志しているという。
それを独学で熱心にやっていることに、びっくりしたのでした。そして、富太郎さんが広げた写生図を見てどれだけ真剣にやっているか、すぐにわかりました。
田中
「素晴らしい。あなたのような研究家が植物を調べることこそが、日本全体の植物を明らかにすることなのです。」
そして、田中芳男さんは、牧野富太郎さんに対しての協力を惜しみませんでした。土佐に帰った時に、情報が少なくならないよう本や資料を送りました。
わからないことがあれば、手紙で質問してくれても良いと言ってくれたのです。牧野富太郎さんは、尊敬する研究者から仲間のように扱われたことに感激しました。
日本植物志図編を見て
明治21年(1888)に牧野富太郎さんは、日本植物志図編第1号を刊行します。これを見た、田中芳男さんは、絶賛しました。
「う~む。牧野くんこれはすごいね。」
初めてあった時から、7年が経過していました。あの時から、少しも変わらない情熱をもって植物学に取り組んでいること。
牧野富太郎さんが植物学の新星になっていることを田中芳男さんは喜び、認めていたのです。
田中芳男さんと牧野富太郎さんは、年齢が24歳離れています。そのため、田中芳男さんからすると牧野富太郎さんは、子供のような存在だったのかもしれません。
それぐらい、田中芳男さんは牧野富太郎さんを認めてくれていた人物の一人です。
里中芳生と田中芳男の相違点
ここからは、NHK朝ドラ「らんまん」の里中芳生と実在モデルの田中芳男さんの同じところや違いをみていきたいと思います。
里中芳生は、万太郎が憧れる植物学者の一人で、異様にテンションが高いサボテン博士です。万太郎(神木隆之介)があこがれる植物学者の一人っていうのは、田中芳男さんと同じです。
サボテン博士ってのも、田中芳男さんはサボテンの研究をしています。そのため、実在モデル通りになっていると言ってよいと思います。
ただ、異常にテンションが高いってところはどうかわからないです。それを覗けば、実在モデルである田中芳男さんを忠実に描いているということがわかります。
まだ、朝ドラ「らんまん」の里中芳生がどんな形の役になるのか明確にわかっていないところがあります。そのため、現状ではモデル通りだと思い餡巣。
実際に、変化していったり・・・情報の訂正が必要になった時には加筆していきますので、その点はご了承ください。
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本名: 田中芳男(たなかよしお)
生年月日:1838年9月27日
没年月日:1916年6月22日
出身: 長野県飯田市