大山捨松(多部未華子)朝ドラ風薫るモデルはどんな人物だったの?

朝ドラ「風薫る」に登場する大山捨松(多部未華子)のモデルはどんな人物だったのでしょうか。朝ドラ「風薫る」で描かれる大山捨松(おおやますてまつ)さんは大山捨松として実在の人物です。

明治という時代の幕開けは、多くの女性たちにとって「沈黙」を強いられる時代の継続でもありました。その中で、故郷を失い、名前を捨て、それでもなお気高く咲き誇った一人の女性がいます。

 

それが、大山捨松です。「鹿鳴館の華」というきらびやかな二つ名に隠された、彼女の壮絶な「戦い」。

会津戦争の砲火をくぐり抜け、「捨てられた松」として海を渡った少女が、帰国後に直面した絶望。そして、看護の先駆者・大関和と手を取り合い、目指した光とは。

鶴ヶ城の焦土から太平洋の先へ

大山捨松(旧姓・山川さき)の原点は、1868年の会津若松城(鶴ヶ城)にあります。 数え年でわずか9歳のときの話です。

彼女が経験したのは、華やかな貴族の生活ではなく、降り注ぐ砲弾と、血に染まった畳の匂いでした。さきは、籠城戦の中で不発弾に濡れ布巾を被せる「焼玉押さえ」を担いました。

 

一歩間違えれば命を落とす極限状態。この時、彼女の中に「生死の境界線で戦う」という強烈な原体験が刻まれました。

会津の敗戦後、山川家は「朝敵」として北の果て、斗南へと追われます。飢えと寒さに凍える日々。そのどん底で舞い込んだ「女子留学生募集」の話は、一族の再生をかけた最後の賭けでした。

 

母・えんは、娘の名を〈さき〉から〈捨松〉へと変え、こう告げました。

「今、お前を捨てたつもりで送り出す。しかし、立派に学んで帰る日をいつまでも待っている」

 

1871年、11歳の捨松は、岩倉使節団と共にサンフランシスコ行きの船に乗りました。11年間にわたるアメリカでの生活は、彼女を「会津の娘」から、科学的思考を持つ「知性の人」へと変貌させます。

名門ヴァッサー大学を卒業し、日本人女性として初めての学士号を手にした彼女は、希望を胸に帰国します。

 

しかし、明治15年の日本には、彼女のような「高度な教育を受けた自立した女性」を歓迎する土壌は、まだどこにもありませんでした。

凍てついた帰国と、愛宕山での邂逅

帰国した捨松を待っていたのは、日本語を忘れ、自国の文化からも疎外されるという孤独でした。「高学歴すぎる女性」は結婚相手としても敬遠され、彼女の知性は宝の持ち腐れとなっていました。

そんな停滞した日々の中で、一人の医師との出会いが彼女を動かします。海軍軍医・高木兼寛との出会いです。

 

彼はイギリス留学で「看護婦教育」の重要性を痛感し、東京・愛宕に「有志共立東京病院」を設立したばかりでした。

1884年(明治17年)5月、捨松は高木院長の案内で病院を視察します。そこで彼女が目にしたのは、近代化とは程遠い、不衛生で混沌とした医療の現場でした。

「病院の体をなしていても、そこに専門教育を受けた看護の力がなければ、救える命も救えません」

 

アメリカで生理学を学び、看護の基礎知識も持っていた捨松は、現場の惨状に鋭い指摘を投げかけました。ここで、捨松は運命の人物に出会います。

それが大関和(おおぜきちか)です。 和は当時、大山捨松のもとで看護の現場を預かる実務家でした。

 

しかし、当時の「看病婦」は単なる世話係であり、地位は低く、専門教育を受ける場もありません。和は現場で孤軍奮闘しながらも、世間の偏見と資金不足という壁に突き当たっていました。

捨松は、和の眼差しの中に、自分と同じ「戦う意志」を感じます。地位も名誉もある「元帥夫人(この時期、大山巌と結婚)」という立場を使いました。

 

大山捨松は地位や名誉を社交のためだけに使うのではなく、看護の現場を変えるための「盾」として使おうと考えました。捨松の心に、静かな火が灯った瞬間でした。

捨松の夫・大山巌は、薩摩藩の出身。かつて鶴ヶ城を砲撃した司令官その人です。周囲の猛反対を押しのけ、ふたりは結婚しました。

 

フランス留学経験があり、広い国際感覚を持つ大山は、捨松の知性を〈宝〉として愛したのです。薩摩の男と会津の女。かつての仇敵同士の結婚は、明治という新しい時代の象徴となりました。

ふたりは家庭内では英語で語り合い、お互いを深く尊重し合う、理想的なパートナーシップを築きます。そんな夫の支えもあり、捨松は立ち上がるのでした。

鹿鳴館の狂騒を「慈愛の資金」に変える

1883年、鹿鳴館が開館します。ドレスを纏い、完璧なマナーで各国の公使と対等に渡り合う捨松は「鹿鳴館の華」として時代の寵児となりました。

捨松はその立場を生かし、高木院長と大関和が直面していた「看護婦教育所」の設立資金難を解決するため、大胆な行動に出ます。

 

それが、日本初のチャリティ・イベント「鹿鳴館慈善バザー」です。当時の貴族社会において、物を売って金を作るという行為は「卑しい」とされ、猛烈な反対がありました。

しかし、捨松は一歩も引きませんでした。「命を救うための資金を集めることに、何の恥があるのですか」彼女は自らバザーの実行委員長となり、公使夫人や華族の女性たちを説得。

 

三日間にわたるバザーで、現在の価値にして数千万円という巨額の純益を叩き出したのです。この資金が、大関和が学び、そして教える場となる「看護婦教育所」の建設資金となりました。

捨松が社会のトップから資金と関心を注ぎ込み、和がその現場で汗を流して技術を確立する。この二人の役割分担こそが、日本の近代看護を誕生させた車輪の両輪でした。

 

1887年(明治20年)、捨松の尽力により「篤志看護婦会」が発足します。これは、華族や官僚の夫人たちが自ら看護を学ぶという画期的な組織でした。

ここで、捨松と和の関係はさらに濃厚なものとなります。講師として教壇に立ったのは、現場のプロとして成長した大関和でした。

 

そして、その最前列で和の講義を受け、実技指導に励んだのは、他ならぬ大山捨松でした。想像してみてください。

当時の厳格な階級社会において、最高位の「元帥夫人」が、一介の実務家である和の前に整列し、「先生」と呼び、包帯の巻き方を教わる光景を。

 

和は、夫人たちに対しても決して容赦はしませんでした。現場で兵士の命を救うためには、身分などは何の役にも立たないことを知っていたからです。

捨松もまた、和の厳しい指導を喜び、模範となって泥臭い作業に没頭しました。「私たちは、ドレスを脱げば、命を守る一人の人間である」

 

捨松と和が共有していたこの信念は、夫人たちの意識を根底から変えていきました。看護は「卑しい仕事」から、国を支える「崇高な義務」へと昇華されたのです。

戦場という真実の舞台

二人の共闘が、真の意味で試されたのは日清・日露戦争という未曾有の国難でした。広島の予備病院には、次々と傷病兵が運ばれてきました。捨松は大関和と共に現場に立ちました。

捨松は元帥夫人としての権威を使い、物資の調達や組織の統率を行い、和はそのプロフェッショナルな技術で、夫人たちや若い看護婦たちを指揮しました。

 

真夏の猛暑の中、悪臭と苦悶の声が満ちる病棟で、捨松は自らバケツを運び、兵士の汚れを拭い、和の指示に従って包帯を替え続けました。

「大山夫人がここまでやるのか」

 

その姿は、周囲の全ての女性たちを奮い立たせました。和の持つ現場の「知恵」と捨松の持つ「高潔な意志」。

この二つが融合したことで、日本の看護は世界に誇れるレベルへと飛躍したのです。

受け継がれる「松」の種火

晩年、捨松は親友・津田梅子の「女子英学塾(現・津田塾大学)」の創設にも尽力しました。彼女がアメリカで得た知性は、私的な幸福のためではなく「日本の未来」のために捧げられました。

1919年(大正8年)、捨松はスペイン風邪によってその生涯を閉じました。五十八歳。彼女の最期は、奇しくも自分が生涯をかけて向上させてきた「医療と看護」の最前線での戦いでもありました。

 

彼女の死後、大関和をはじめとする多くの看護婦たちが、彼女の遺した功績を涙ながらに語り継ぎました。捨松と和。

二人の間に、プライベートな友情を示す手紙などは多くは残っていないかもしれません。

 

しかし、彼女たちが共に過ごした「愛宕の病院」「鹿鳴館のバザー会場」「戦時の広島」という現場には、言葉を超えた強固な信頼がありました。

捨松にとって和は「自分の理想を具現化してくれる唯一無二の右腕」であり、和にとって捨松は「自分たちの存在を社会に認めさせてくれた唯一無二の盾」でした。

最後に

会津の落日から始まった「捨てられた松」の物語は、異国の知性を経て、大関和という最高の相棒を得ることで、日本という大地に「看護」という名の不変の緑を根付かせました。

私たちが今日、当たり前のように受けている看護。その源流には、身分を捨て、プライドを捨て、ただ「目の前の命を救う」という一点で結ばれた二人の女性の、気高い魂の共鳴があったのです。

彼女たちの戦いは、今もなお、困難な時代に立ち向かう全ての女性たちに、静かな、しかし力強い勇気を与え続けています。