NHKの朝ドラ「風薫る」の中で、主人公・りん(見上愛)のクラスメイトでキツイ性格をしている多江(生田絵梨花)がいます。
今回は、多江のモデルになっている桜川里以(さくらがわりい)さんがどんな人物なのか。NHK朝ドラ「風薫る」の多江とどう違うのかみていきます。
水戸藩儒者の娘として
桜川里以さんは1866(慶応2)年に生まれました。父は水戸藩の儒者・水野豊九郎。水戸学の薫陶を受けた家庭環境は、彼女に深い教養と「義」を重んじる精神を育みました。
水戸学は、尊王や忠義を重んじる学問として知られ、幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。一方で、明治維新によって旧幕府側に立った人々の立場は厳しいものとなります。
そうした激動の空気を、幼い里以さんもまた家庭の中で感じ取っていたのかもしれません。しかし、幕末の動乱が彼女の運命を激変させました。
1868(慶応4)年、鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗北し新政府軍が勢いづく中で、幕臣や佐幕派に対する風当たりは苛烈を極めました。
混乱と新政府側からの追及の手を逃れるため、父・豊九郎は断腸の思いで「水野」の姓を捨て「桜川」へと改名します。
この「桜川」は茨城の名勝・桜川にちなんでいると考えられています。明治維新後、一家は上京し、父は子爵の学問所に招かれた後、築地女学校(後に青山女学院と改称)の講師となりました。
やがて父は牧師・植村正久さんと知り合い、一家でキリスト教に入信します。この信仰との出会いが、里以さんのその後の生き方を方向づけることになりました。
明治の初期、女性が職業を持って社会に出ることは、まだ一般的ではありませんでした。ましてや病人の世話をする「看護婦」という仕事は、〝身分の低い仕事〟と見なされることすらあった時代です。
当時の病院では、患者の世話は家族や使用人が担うことも多く、「職業として看護を行う女性」という存在そのものが、まだ社会に十分受け入れられてはいませんでした。
そのため、看護の道へ進むことは、女性にとって大きな決断だったのです。そのような時代に里以さんが看護の道を選んだ背景には、キリスト教の博愛精神との深い結びつきがあったと考えられます。
桜井女学校附属看護婦養成所へ
里以さんが足を踏み入れた場所が、桜井女学校附属看護婦養成所でした。この養成所はマリア・T・ツルーが設立に尽力した機関で、日本における近代的な看護教育の先駆けとなりました。
1期生は8人が入学し、修了したのは6人。里以さんはその6人のうちのひとりです。同期には大関和さんと鈴木雅さんがいました。
大関和さんは黒羽藩家老の次女として生まれ、離婚を経て上京後、牧師・植村正久さんの勧めで入学しました。
鈴木雅さんは静岡出身の士族の娘で、夫の陸軍少佐を病で失い、「十分に看護を受けさせられなかった」との思いから看護の道へ進みました。
それぞれに深い事情を抱え、この場所にたどり着いた人物でした。共にかつての武家社会の規範の中で育ち、維新によって人生を大きく変えられた者同士、互いに共感しました。
指導にあたったのはイギリス人教師アグネス・ヴェッチです。学ぶ内容は「看病の要旨」「薬餌用法」「包帯術」「消毒法」など9項目に及びます。
看護の知識だけでなく、掃除・洗濯・食事づくりなど生活全般を重視した全寮制の教育でした。里以さん・和さん・雅さんはこの養成所で同じ教育を受け、寝食を共にしながら学びました。
なお、この養成所から看護婦として巣立ったのは、里以さんたち第1期生のみでした。里以さんたちの修了した1888(明治21)年をもって、養成所はその役割を終えることになったのです。
そのため、第1期生は同時に最後の修了生でもあったのです。
帝国大学附属病院へ――内科の看病婦取締として
1888(明治21)年10月、修了式を終えた里以さん・和さん・雅さんの三人は、帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)に採用されます。
大関和さんが外科の看病婦取締(現在の看護師長に相当。当時は〝看病婦〟という呼称が用いられていました)に就任したのに対し、里以さんと鈴木雅さんはともに内科の看病婦取締となりました。
当時の日本には「訓練を受けた看護婦」はほとんど存在しませんでした。帝国大学附属病院において、卒業後すぐに看病婦取締という責任ある役職に就くのは今では考えられません。
ただ、その事実は病院側から大きな期待を寄せられていたことがうかがえるでしょう。この時代の看護婦が置かれた状況は厳しいものでした。
専門職としての社会的理解も乏しく、看護婦たちの待遇や地位は、医師たちに比べ極めて低いものでした。
大関和さんは後に、教授に看護婦の教育・待遇に関する建議書を提出したことで病院を辞することになります。同じ現場にいた里以さんもまた、そうした環境の中で働いていました。
それでも、近代医療の現場には、少しずつ「専門職としての看護」が根づき始めていました。里以さんたちは、日本の看護史におけるまさに最初の世代だったのです。
キリスト教精神とともに歩んだ道
帝国大学附属病院での勤務を経た後、里以さんは聖慈医院・赤坂病院とキリスト教精神に基づく病院を歴任しました。
一家で入信したキリスト教の信仰が、里以の職場の選び方にも一貫して表れていました。当時のキリスト教系病院では、治療だけでなく、貧しい人や身寄りのない患者への奉仕も重視されていました。
看護は単なる仕事ではなく、「隣人に仕える行い」として受け止められていたのです。里以さんにとってもまた、看護とは信仰を実践する道のひとつだったのかもしれません。
この頃、里以さんは養成所の校長であったマリア・ツルーが設立した衛生園に、母と弟とともに居住します。しかし、やがて母と弟を相次いで失い、ツルーも世を去りました。
桜井女学校附属看護婦養成所の同期である大関和さんや鈴木雅さんも里以さんとは、異なる道を歩んでいました。
鈴木雅さんは1891(明治24)年に「慈善看護婦会」(後の東京看護婦会)を東京本郷に設立し日本初の個人経営による派出看護婦会として在宅の病人への看護を始めます。
大関和さんは新潟県の知命堂病院で看護婦長となり、赤痢の大流行に際して防疫の最前線に立っていました。三人はそれぞれ、看護という職業の確立に向けて、それぞれの形で関わり続けていました。
ハワイへ、そして帰国へ
里以さんの人生には、海外で過ごした時期があります。母・弟・ツルーを相次いで失った後、里以さんはハワイへと渡航します。ホノルルに勤務していた婚約者の医師と結婚するためでした。
里以さんは婦長として日本人病院で夫とともに働き、二人の間には一女が生まれました。当時のハワイには、多くの日本人移民が渡っていました。
慣れない土地での労働や生活の中で病に倒れる人も少なくなく、日本語で診療や看護を受けられる環境は大きな支えでした。
里以さんもまた、異国の地で日本人移民たちを支える存在となっていたのでしょう。しかし、夫が病を得て、一家で帰国することになります。
帰国後、夫と死別した里以さんは、その後も派出看護婦として働き続けました。鈴木雅さんが設立した東京看護婦会では、後に大関和さんが会頭を務めています。
三人の縁はその後も形を変えながら続いていました。里以さん自身がどのような晩年を送ったかについての詳細な記録は、現時点では確認されていません。
日本の近代看護の第一世代として、訓練を受けた最初の看護師のひとりとして、里以さんは国内外を問わず看護の現場に立ち続けました。
水戸藩儒者の娘として生まれ、キリスト教の信仰を軸に、大関和さん・鈴木雅さんという同志とともに歩んだ里以さん。
幕末から維新によって価値観が大きく揺らぐ時代を生きた彼女にとって、看護という仕事は新しい時代における女性の生き方そのものでもあったのでしょう。
その足跡は近代看護史の中に静かに残されています。
風薫るの多江との違い
NHK朝ドラ「風薫る」の中で、多江の父・仙太郎(吉岡睦雄)は医者で、兄弟も医者という設定になっています。
桜川里以さんの父は講師をしていることから、医者ではありません。なので、この辺りの家庭環境は異なる設定になっています。
「風薫る」の中では、医者とのお見合いを断って看護婦になりたいと決意を語り、父・仙太郎にも認められました。
桜川里以さん自身は、医師と結婚しハワイに移住するところがあります。「風薫る」では、看護婦になった後どうなるのかはまだわかりません。
しかし、桜川里以さんが医師と結婚して海外にいったように、多江が医者と結婚して海外に行くことになる可能性はあります。
多江が養成所を卒業した後に、どんな進路に進んでいくのか。モデルの桜川里以さんにどう寄せて描いていくのか楽しみですね。










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