淡谷のり子(茨田りつ子/菊地凛子のモデル)はどんな人だった?

今回は、朝ドラ「ブギウギ」の茨田りつ子(菊地凛子)のモデル・淡谷のり子さん(あわやのりこ)さんについて紹介したいと思います。

淡谷のり子さん(あわやのりこ)さんは、日本の女優として多くの名作で知られ、また歌手としても成功を収めています。

 

笠置シズ子さんのライバルと評されることも多かった芸能人でもあります。ここからは、淡谷のり子さんさんの生涯と彼女のキャリアに焦点を当てていきます。

また、後半には笠置シズ子さんと淡谷のり子さんさんの比較という点からもお伝えしていますので、最後までご覧ください。

淡谷のり子さんの生涯

まずは、淡谷のり子さんさんの簡単なプロフィールから見ていきます。

淡谷のり子さんとは
  • 生年月日:1907年8月12日
  • 活動分野:女優、歌手
  • 訃報:2015年7月28日に亡くなる

淡谷のり子さんさんは、1907年(明治40年)8月12日に青森県青森市に生まれました。本名は淡谷節子(たんや せつこ)です。

父は弘前高等学校の教師で、母はピアノを教える音楽家でした。幼い頃から音楽に親しみ、5歳でピアノを始めました。

 

1918年(大正7年)、11歳のときに父が亡くなり、母とともに東京に移り住みました。東京では、東洋音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に入学し、ピアノと声楽を学びます。

在学中には、同級生だった作曲家の古関裕而や歌手の藤山一郎と親交を深めました。また、当時流行していたジャズやブルースにも興味を持ち、レコードやラジオで聴いて研究します。

 

1926年(大正15年)、19歳で東洋音楽学校を卒業した後、日本初の女性オペラ歌手である荻野綾子に声楽を師事しました。

荻野綾子は、淡谷のり子さんに西洋音楽だけでなく、日本の民謡や唱歌も歌うように勧めます。また、日本初の女性シャンソン歌手である久保田稲子にもシャンソンを教わりました。

 

久保田稲子は、淡谷のり子さんに対してフランス語や発音法も指導してくれます。

1928年(昭和3年)、21歳でポリドールレコードからデビュー盤「久慈浜音頭」を発表しました。

この曲は、青森県久慈郡大湊町(現在の下北郡大間町)出身の作詞家・作曲家である小林亜星が作った民謡調の曲です。

 

「久慈浜音頭」は、淡谷のり子さんの美しい声と感情豊かな歌唱が評判を呼び、ヒットしました。

日本コロムビアへの移籍

1930年(昭和5年)、23歳で日本コロムビアに移籍しました。日本コロムビアでは、作曲家の古賀政男とコンビを組み、多くのヒット曲を生み出します。

古賀政男が作った曲は、「古賀メロディー」と呼ばれ、日本のポピュラー音楽の歴史に大きな影響を与えました。

 

淡谷のり子さんは、「東京行進曲」、「東京ラプソディ」、「上海帰りのリル」などの古賀メロディーを歌い、大人気になりました。

1934年(昭和9年)、27歳でシャンソン曲「ドンニャ・マリキータ」を発表しました。この曲は、フランスのシャンソン歌手であるダミアが歌った「Les Goélands(かもめ)」の日本語版です。

 

「ドンニャ・マリキータ」は、淡谷のり子さんの低音域と高音域のコントラストが魅力的な曲で、日本で初めてシャンソンが広く知られるきっかけとなりました。

淡谷のり子さんは、この曲で日本のシャンソン界の先駆者として名声を得ました。

戦時下と戦後の活躍

1939年(昭和14年)、32歳で「別れのブルース」を発表します。この曲は、戦争によって別れる恋人たちの悲しみを歌った曲で、淡谷のり子さんの代表曲となりました。

1940年(昭和15年)には、「雨のブルース」を発表しました。この曲は、「別れのブルース」と同じく戦争による別離をテーマにした曲で、淡谷のり子さんの哀愁あふれる歌声が人々の心に響きました。

 

「別れのブルース」と「雨のブルース」は、戦時下でも大ヒットし、レコード売上は100万枚を超えました。

1941年(昭和16年)、34歳で太平洋戦争が始まりました。淡谷のり子さんは、戦争に反対する立場でしたが、国民的な歌手として国策に従うことを余儀なくされます。

 

彼女は、軍や工場などで慰問活動を行い、兵士や労働者たちに元気を与えます。

また、ラジオ番組「淡谷のり子さんとその仲間たち」や「淡谷節子音楽教室」に出演し、音楽を通じて国民に慰めや勇気を届けました。

 

1945年(昭和20年)、38歳で終戦を迎えます。淡谷のり子さんは、戦争によって荒廃した日本に音楽で希望を与えることを目指しました。

彼女は、1946年(昭和21年)から始まったNHK紅白歌合戦に初回から10回連続で出場し、紅組の司会も務めます。

 

また、1959年(昭和34年)には、日本レコード大賞の特別賞を受賞しました。1961年(昭和36年)には、日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞します。

淡谷のり子さんは、戦後の日本の音楽界において、第一線で活躍し続けました。

 

1970年(昭和45年)、63歳で脳梗塞で倒れます。しかし、彼女は音楽活動をやめることなく、リハビリをしながら新曲を発表しました。

1971年(昭和46年)には、「愛の讃歌」を発表しました。この曲は、フランスのシャンソン歌手であるエディット・ピアフが歌った「L’Hymne à l’amour(愛の讃歌)」の日本語版です。

 

「愛の讃歌」は、淡谷のり子さんの力強くも優しい歌声が感動を呼び、ヒットしました。

バラエティ番組やCMに出演し若者にも人気

1970年代から1980年代にかけて、淡谷のり子さんは、バラエティ番組やCMにも積極的に出演します。個人的には、晩年にものまね番組で採点をしていたのが印象に残っています。

彼女は、自身のキャリアやプライベートなどを赤裸々に語ったり、若手芸人と絡んだりする姿が親しみやすく人気がありました。

 

また、CMでは「淡谷節子さんが選んだお茶」や「淡谷節子さんが食べるカップヌードル」などキャッチフレーズで話題になります。淡谷のり子さんは、若者からも敬愛される存在となりました。

1977年(昭和52年)、70歳で紫綬褒章を受章しました。これは、文化功労者として国家に対して顕著な功績を挙げた人物に授与される勲章です。

 

1982年(昭和57年)、75歳で日本芸術院会員に選ばれました。これは、芸術分野で優れた業績をあげた人物に与えられる名誉職です。

淡谷のり子さんは、日本の音楽界において、最高の栄誉を受けることとなりました。

淡谷のり子さんの最後

1989年(平成元年)1月16日、81歳で自宅で老衰により死去しました。彼女の死は、日本中に大きな衝撃と悲しみをもたらします。

彼女の葬儀には、多くの芸能人やファンが参列しました。彼女の墓は、東京都文京区の谷中霊園にあります。

 

彼女の墓石には、「淡谷節子」と「淡谷のり子さん」という二つの名前が刻まれています。彼女は、生涯にわたって音楽に情熱を注いだ人物として、多くの人々に記憶されています。

笠置シズ子と茨田りつ子

朝ドア「ブギウギ」で、淡谷のり子さんをモデルにしてるのは茨田りつ子(菊地凛子)です。花田鈴子(趣里)の生涯のライバルとして描かれます。

実際に、笠置シヅ子さんは淡谷のり子さんのライバルとみられていたのでその辺りは、そのまま描かれています。

 

笠置シヅ子さんはブギの女王と言われ、淡谷のり子さんはブルースの女王と呼ばれました。芸能界で時に競い合い、時に支え合っていくストーリーになっています。

同じ戦前戦後に活躍した芸能人としてどのように描かれていくのか。朝ドラ「ブギウギ」の描かれ方が楽しみです。



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